02816℃ (砂上) 朝がきて、いつものように砂浜に出て歩く。 眩しい。空が鮮やかに青い。 その鮮やかさが、不自然な感じさえする。 砂を踏むとザッという音がして、足元の細かいそれが舞った。 ここの砂はとても軽い。そして白い。 舞う砂の向こうには、長くてゆっくりと旋回する影が見える。 風車。 この砂浜には大きな風車がある。羽も柱も白くて、巨大だ。 砂の色と変わらない。 だからもし風車が倒れたとしたら、 全てが白くて見分けがつかないかもしれない。 それは一大事だ。 砂浜には風車のほかに目立つものは何もない。 だから風車が倒れたら、それは一大事だ。 視界に横のラインしかなくなってしまう。 そんな風景に慣れてしまったら、 いずれまともに立てなくなる気がする。 立っている自分の体が本当に垂直になっているのかどうか、 きっとわからなくなってしまう。 ここに複雑なものは何もない。 だからそんなことを考えて暮らしている。 ここに複雑なものは何もない。 敢えていうなら、風車のほかには家がひとつある。 それは80%が砂浜に埋まっている。 巨大なミサイルの発射ボタンのように、 地表から50cmくらい、天井にあたる硬質な正方形が突出している。 その中心にある丸いマンホール形の入り口から入ると、 中も正方形に囲まれた無機質な空間になっている。 大きさは、ヒト1人と、犬2匹と象が1体が入ってぎゅうぎゅうになるぐらいだ。 家というよりも、箱。 その箱は、外も中も白い。 でも色がくすんでいるから砂との見分けはつく。 アイボリーというほど、趣はない。 僕はそこに住んでいる。 16℃。 空気が少しだけ痛い。 旋回する風車の影の下から、上を見上げる。 眩しい。空が鮮やかに青い。 不自然な感じさえする。 冷えた空気の中では、海も空も格別に青く感じる。 原則の青だ。イデアの青。 イデアの砂、イデアの家、イデアの風車。 この場所はそんな風に感じる。 「永遠不変で、完璧、あらゆるもの雛形」 「最高度に抽象的な完全不滅の真実の実在的存在」 イデアと言ったけれど、そんなつもりはない。 そんなものはない。 生まれる前のことなんてわからない、死んだ後のことも。 生まれたことや死んだことさえも、自分自身では認識できない。 だから、永遠とか、完璧なんてものはない。 他に表現の仕様がない。それだけだ。 ところで、 いったいここはどこなのだろう。 もう長いこと、毎日毎日、広くて限りのない海岸を歩き続けてきたけれど、 さっぱりここがどこなのかわからない。 どこをどう歩いても、結局。 風車と箱のあるこの場所に戻ることになる。 急に風が吹いて、砂が巻き上がった。 髪がグシャグシャになり、大量の砂が顔をかすめていった。 いつもの現象だ。 この数秒、何も見えなくなる。 最初は驚いて、荒れる砂に囲まれて身を固くしていたが、 もう慣れた。 ただほんの数秒、砂に視界をふさがれるだけ。 だからその間、寝ることにした。 ここにきてから思いついた遊びだ。 瞬間、意識を、意識的に飛ばす。 意識的に、無意識になる。 これがやたらと難しくて、飽きない。 でも一度だけ成功したことがある。 今日のような少し肌寒い日で、砂は高く舞い上がった。 その中にいたのはほんの2、3秒。 意識を完全に無くして、リアルな夢を見た。 店にいた。確か、そこには行ったことがある。 誰かと話をしていた。音楽が流れていた。昼間から赤いカクテルを飲んだ。 あんなにはっきりと見た夢なのに、もう曖昧だな。 テーブルに向かい合った人の笑顔だけを、しっかりと覚えている。 砂が通り過ぎると、目の前に白い骨格が現れた。 化石。 砂の混乱が去ると、現れる。 ただ果てしなく続く砂浜に、化石が孤独に立つ。 穴の空いた頭に長い首、その先に細く並ぶ肋骨が2mほど続く。 ヒレだか脚だかわからないものが、骨格を支えている。 たぶん、海竜のような動物だったんだろう。 ここにきてから、いろんな化石を見た。 どうやら、砂の下にまだいるらしい。 なぜか昼間になると、 高く砂を巻き上げ、不意に地表に出現する。 どれだけの動物が埋まっているのか、今のところ想像がつかない。 ここを毎日歩くようになって、わかったことがひとつだけある。 砂の下には時間がある。液体に浸された時間が。 だから足が沈む。 もつれて、動きを捕られるが、今のところはなんとか歩き続けている。 ここを毎日歩いているが、それ以外はなにもわからない。 それまではわかっていたことも、忘れてしまったような気がする。 忘れたことの割合のほうが、大分多い。 歩き疲れたら、家に帰る。それは覚えている。 帰ろう。 ジャケットを脱ぐと、普段よりも砂が入っていて、 それはパラパラと床に落ちた。 正方形の家には、ペンと紙がある。 文字も覚えているし、言葉も失ってはいない。 ペンや紙の使い方もわかる。 目的を忘れてしまったから、使っていない。 いつもはただスチール椅子に座り、 ぼんやりしているうちに夜がきて、眠る。 今日はなぜか、知らず知らずのうちにペンを手に取っていた。 もちろん、これが何をするためのものなのか思い出したわけではない。 スタンドライトも点けず、 ただペンを持ち、紙と直面し、しばらく固まっていた。 「16℃」 やっとそれだけ書いて、ペンを置いた。 どうしたんだろう。 自分自身が全くわからない。 時計は持ってないけれど、僕は小さな温度計を持っている。 16℃は今朝の空気の温度だ。 僕の手は、そんな意味のない数字を書いた。 何のために。 確かここにくるまえは、理由のわからないことが一番辛かった気がする。 今は全てがわからなすぎて、 平気になってしまった。 でもペンを置いた手が、少し震えていた。 慣れないことをしたからだろう。 左手で紙をつかみ、ふたたび外へ出た。 外はすでに暗かった。 足が沈んでしまわないように気をつけながら、砂浜を歩いた。 日が落ちた直後で、海と空の境界線が曖昧になってきている。 もうすぐ、全部が夜になる。 紙を水平に持ち、その消滅しそうな境界線を測った。 境界線。 紙と水平線のラインがぴったりと重なり、日が完全に落ちた。 あぁ、真っ暗だ。 目が見えなくなると、体の感覚が冴える気がする。 紙を持つ指と指の間に、 さっきまでは気がつかなかった細かな砂があるのを感じた。 それを払おうと手を開くと、砂がさらさらと少し零れただけで、 紙が消えていた。 消えた。 風はなかった。飛ばされたわけではない。 指を離した覚えもない。 でもどこにもない。 もう一度手のひらを目の前にかざしてよく見てみたけれど、 消えた。 頭痛がする。 歩き疲れたから、家に帰ろう。 そして、眠ろう。 明日の朝になれば、また青い海が見れる。 砂浜を歩いて、化石に出会って、 とにかく沈まないように歩いて、 そうすれば少しずつ、 なぜここにきたのかわかる気がする。
by Dasein100-1
| 2005-10-29 09:12
| 028 16℃(砂上)
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