029




10℃ (砂中)




朝がきて、いつものようにアラームがなる。
目が開かない。
どんなに頑張っても、まぶたの上の筋肉が伸びるだけ。
ぐるぐるとした意識の渦から抜け出せない。
朝に、弱い。
夢と現実の境界線がなかなかひけない。
どんな違法な手術でもいいから。
すっきりと一瞬で起きれるスイッチを私につけてほしい。
そのスイッチは目立たないように耳の後ろに設置されていて、
おまけにタイマー式だから、自分で押す必要もない。
頭も目もシャキっとして、おいしいトーストを食べて至福の朝を迎える。
なんて。そんな願いは叶うわけがなく。
会社に行く身支度が全て整っても、私はまだ混沌とした世界にひきずられている。
私が本当に住む世界は、さっきまでいたあっち側だと思うな。
目が覚めたこの世界が、たぶん嘘だと思う。
だからもう一度帰らせてください。
未練がましくテーブルに突っ伏すと、テレビから偶然占いの結果が聞こえた。

「今週の12位はごめんなさい、蟹座です。」

蟹座。ね。
もっと早くテレビを消しておけばよかった。
占いなんてそもそも信じてないから、最下位だと言われると余計気分が悪い。
でもそれって、信じてるってことか。
なんだか無性に腹が立ってきて、目が覚めた。
体を起こし、必要以上にリモコンのボタンを強く押し、テレビを消した。


そうだ、これから朝は頭にくることを思い浮かべることにしよう。
最悪だと思っていた物事に、こんな使い道があるとは。




あぁ空気が冷たい。
明日からマフラーをしていこう。
寒くなってきた。

10月。
家を出て、ただそう感じただけの、普通の日だった。
目覚めと占いが最悪だったこともふまえて、
とてつもなくいつもと変わらない日だった。

駅までの道。
冷たい風が吹いて、少し肩をすくめた瞬間。
私は突然カサカサしたものを左手の指の間に感じた。
何も触っていないし、誰も近くにいなかったのに。
それは突然出現した。
指でつかんだまま、目の前にかざしてみる。

1枚の紙。
レシート?
その紙にはサラサラとした小さな白い粒がいくつか付いている。
なにこれ、砂糖?
指をくるっとまわし、紙を裏返す。
『16℃』
じゅうろくど?

16℃

頭痛がした。
これは、普通の出来事なのか。そうじゃないのか。
私にとって、それを判断する作業はとても困難で、
そういうときは決まって頭が痛くなる。




精神科と脳外科に通ったことがある。
かなり昔のことだけれど。
病院の匂いと、蛍光灯のぼんやりとした廊下をよく覚えている。
ふんわりとした匂いのする看護婦さんと、
訪ねる度にヤクルトをくれた、腸炎で鬱病のおばさんをよく覚えている。
医者の説明によると、
私の頭は構造的にひどく曖昧に作られていたらしい。


君の場合、「物事」の振り分けが、うまくいかないんだ。
例えば、投げたボールが弧を描いて上から下に落ちることは「普通」のことで、
例えば、ボールがひとりで宙に浮いてあっちこっちに動き回りだすことは「普通」ではない。
わかる?わかるよね。
君は頭がいい。それはテストで証明されている。
言われたことを「理解できない」というわけじゃないんだ。
ただほんの少しだけ人と違うのはね、君の中に、そのなんていうか、
「普通」がうまく作られていないんだ。
人は「帰納法」「演繹法」を使って、
ある基準というものを自分の中につくりあげていく。
簡単にいうと頭の中でいつも審判が行われているんだな。
これは普通のこと、これは普通じゃないこと。
これは正しいこと、これは正しくないこと。
そうやって自分で下した判断を、繰り返し書き込んでいくんだ。
モラルだとか価値観とかいうものは、大人になるほど固まっていく。
間違えて書き込んでいくと、社会で生きるのに困ったことになる。
君はそういった判断を間違えるわけではない。
判断すること自体をしない傾向にあるらしい。
さっき僕はボールの話をした。
生きていくなかで、ボールが落ちるという「普通」の現象をいやというほど見ることがあるだろう。
そしてボールを投げるとこうなる、という一般法則を作って理解する。
それが帰納法だ。
ボール以外のもの、例えば投げられた林檎が弧を描いて落ちる現象を目にすることもあるだろう。
でもボールの「普通」を知っていれば驚くことはない。林檎だろうが、鞄だろうが、猫だろうが。
これが演繹法だ。
そして、そうだな。例えば今ここでカボチャを投げるとする。
机にあるこれ、この小さいオレンジ色のカボチャだ。
もうすぐハロウィンだからね、さっき看護婦さんからもらったんだ。
さて、どうなると思う?

私は必死で考えた。
先生の言うことはわかった。ボールの話もよくわかった。
聞かれたことの答えは、すぐそばにあるような気がした。
でも、出てこなかった。
だから、「カボチャ」に関するあらゆる情報、「投げる」という動作に関するあらゆる情報、
私の中に記録されていたものをぐちゃぐちゃにひっぱりだして、
無理やり短縮して、言葉にする。

「…緑になる。それで、つぶれる。」


そうか、そうだな。
こんなオレンジのカボチャが投げられるところは見たことないもんな。
緑になるかもしれない。
僕も投げたことないからね、否定はできないよ。
力一杯床に叩き付けたら、カボチャもつぶれるかもしれないね。


そんなことを言いたいわけじゃなかった。
先生の力の無い笑顔に、たまらなく悲しくなった。


いろいろ調べてわかったんだけど、
君は集めた物事をカテゴリーに分けたり、式にしてイコールに結ばない傾向にあるらしい。
みかんが1個と、いちごが1個ある。たしたらいくつですか?
と聞かれても、「みかん1個といちご1個」と答えるだろう。
いや、「みかんの上にいちごを載せる」と答えるかもしれない。
でもその答えは一般的じゃない。
いくつですか?という質問の意味も理解しているし、1タス1ができないわけじゃないのはよくわかってる。
君は「ケインズ理論」が理解できるぐらいなんだから。
最初はふざけてるのかと思った。からかわれてるのかと思った。
申し訳ない。これは重大な問題だった。
その特殊な思考はとてもすばらしいと、僕は思う。
でも。人よりも極端すぎるんだな。この先、生きづらいだろう。

なんだか話があっちこっちにいってしまって混乱させたかもしれないな。
とにかく僕の言いたいことは、
まず君の中に「基準」を築くリハビリから始めようということだ。



これは昔の話であって。
リハビリを続けた結果、私は普通の人になれた。





でもたまに。
たまに思考が混乱すると、頭痛がする。


私はただ、「16℃と書かれた紙を突然手にした」
という事実だけを飲み込むことにした。
深呼吸をして、その紙をそっとポケットの中にしまった。

そしていつものように、会社に向かった。





「あさはらー。寝るな~。」
ぐわん ぐわん
後ろから頭をつかまれ、まわされる。
椅子の背もたれががくっと後ろにさがり、転げ落ちそうになる。
慌てて背筋を伸ばし振り向くと、にやにやしながら加藤が立っていた。

「加藤さん」
「浅原、おまえなぁ。どれだけ寝たら気が済むんだよ。」
「あっ。大丈夫です。いま気が済みました。」
「またどうせ午後も寝るんだろ。」
「寝ま…せん。」
「お前のデスク、催眠ガスがでてるのかもな。」
「いや、え、そうなんですか。」
「きっとでてるよ。オレ今まで会社で寝たことないのにさ、最近午後めちゃくちゃ眠くなるんだよ。絶対そこから変な煙出てんだって。まぁいいや。昼飯行こうよ。」
時計をみると、13時を過ぎていた。
「あ。あの、今日は。すいません。」
「なに。」
「今日はちょっと。お昼、約束がある気がするんです。」
「…気がする?」
加藤は眉にしわをよせて、複雑な表情をした。
「そっか。じゃ、一人で行くわ。」
さっと目をそらし、加藤はオフィスから出ていった。
私はぼんやりとその後姿をみる。
「気がするって…断り方、もうちょっと考えたら。どうしたの。いつも誘われたら行ってたじゃない。」
隣の席の坂巻がキーボードを叩きながら、責めるような口調で言う。
「本当に…気がするんです。」
「そう。別に追求はしないけど。私はあんたと約束してないわよ。」
「ですよね…。あの、坂巻さん。 『16℃』ってなんですか?」
「はぁ?」
坂巻は手をとめて、大きな目をめいっぱいに開いてから、ゆっくりと瞬きをした。
「浅原…寝ぼけてるの?不思議系にもほどがあるわよ。」
「ですよね…。すいませんなんでもないです。ちょっと行ってきます。」
「どうしたの。大丈夫?なんかあった?」
「いや、大丈夫です。」
心配そうな坂巻の視線を背後に感じながらオフィスを出ると、
足は自然と街中にあるオープンテラスの店に向かっていった。
なんとなく、約束がある気がしている。
なんとなく、この店を知っている気がする。
中に入ると、Tシャツにジャケットを着て、左耳にピアスをした、
テラス側の席に座る人と目があった。
なんとなく、この人を知っている気がする。
思わず、手をあげてしまった。
その人は、笑顔を見せた。

「お腹すいた?」
「うん。すごく。もうなんか頼んだ?」
「いや、オレも来たばっかり。」

知っている気がする。


「いい?呼ぶよ。」
「ちょっと待って、まだ決めてない。」
「どうせオーダー直前まで決められないくせに。すいませーん。」
「え、まっ、あのさどっちがいいと思う?」
「知らねーよ。」
そう言って笑うこの目の前の人を、知っている。
気がする。



「なんでシーフードのパスタ選んでエビ残すわけ?」
「エビ苦手だから。」
「それは知ってるよ。でもシーフードの意味ないじゃん。」
「エビ以外の具は好き。あとシーフードっていう響きが好き。だから無性に食べたくなった。」
「なんだそれ。」
笑いながらフォークを伸ばしエビを食べてくれるこの光景を
前にも見た気がする。


「あ、これ、聴いたことある。」
「ん?」
「今店に流れてるの。」
「ああ、そういえばこないだ部屋で流した。」
「やっぱり。今度貸して。」
「いいよ。隙間がいいんだよ。この人らの音楽。」
「隙間?」
「音が薄くなるところ。
 聴きこむと、濃い部分よりも薄いところにツボがあったんだ。
 淡い色を目立たせるために原色を使ってるような感じ。」
「ふーん。私はたぶんその原色の部分が気になってるだけだと思う。」
「もちろん最初はね。聴き込んでみてよ。」
「うん。」
その音楽を私はすでに何度も何度も繰り返して聴いている気がする。


「なんか空があやしいね。」
「あぁ雪降るんじゃないの。」
「そしたら今シーズン初だね。あーマフラーしてくるんだった。」
「寒い?テラスじゃなくて、中にすればよかったな。」
「平気。寒くないし、寒いの好き。」
「なんだそれ。どっちだよ。」
「ねぇ、今何度?」
「あー、えっと、10℃。これあってんのかな。」
「ほんっと変わってるよね。なんで温度計持ってるの?」
「うーん、なんとなく温度計が好きだから。」
「時計は嫌い?」
「嫌い。」
手のひらサイズの温度計をジャケットにしまうその姿をよく見た気がする。

「ね、ペン貸して。」
「なにすんの。」
「今日の温度を書いて、置いて帰る。」
「くだらねーなぁ。」
「あ、コーヒーきた。この砂糖の容れ物可愛いね。」
「こぼしてるよ。砂糖。」
「あーほんとだ。思った以上にサラサラだった。ちょっと、その赤いのなに。」
「酒。カクテル。」
「いつのまに。昼間だよ。しかもこんな寒いのに。」
「寒いから、暖房代わりに。これさ、なんて書いたつもり?」
「え?『10℃』。10℃だったでしょ。」
「『16℃』に見える。0、はみ出しすぎ。それ書き癖だよな。
 そういえばオレ、最初の電話かけ間違えたよ。お前の汚いメモのせいで。」
「そうだったの?」
「知らないオヤジにかかった。田中さんって人。いい人だったから登録した。」
「それおもしろい。」
「おもしろくねーよ。」
たくさん電話をした気がする。たくさん話をした気がする。



6に無理やり線を重ねて、太い0にした。
ありがとうと言って、ペンをかえした。
どういたしましてと言って、笑って受け取ってくれた。
ふと名前を思い出した。呼ぼうとした。
そしたら、消えた。
思い出したはずの名前も消えて、
目の前にいたはずの人も消えた。
『10℃』と書いた紙も消えた。


頭痛がした。
これは、普通の出来事なのか。そうじゃないのか。
私にとって、それを判断する作業はとても困難で、
そういうときは決まって頭が痛くなる。



頭痛がおさまったとき、雪が降ってきた。
なんだか全てが曖昧に思えてきた。
私はここで寝ていて、しばらく夢を見ていたような気もする。
会社に戻ろう。加藤さんには、
「お昼に一人でたっぷり寝たから、午後は絶対寝ません」と言おう。




あんなにはっきりと見た夢なのに、もう曖昧だな。
テーブルに向かい合った人の笑顔だけを、しっかりと覚えている。




明日になればまた朝がきて、境界線に迷う。
でも、街を歩いて、会社に行って、
とにかく沈まないように歩いて、
そうすれば少しずつ、
なぜこの場所で生きているのかわかる気がする。











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# by Dasein100-1 | 2005-10-31 09:53 | 029 10℃(砂中)

028




16℃ (砂上)




朝がきて、いつものように砂浜に出て歩く。
眩しい。空が鮮やかに青い。
その鮮やかさが、不自然な感じさえする。
砂を踏むとザッという音がして、足元の細かいそれが舞った。
ここの砂はとても軽い。そして白い。
舞う砂の向こうには、長くてゆっくりと旋回する影が見える。
風車。
この砂浜には大きな風車がある。羽も柱も白くて、巨大だ。
砂の色と変わらない。
だからもし風車が倒れたとしたら、
全てが白くて見分けがつかないかもしれない。
それは一大事だ。

砂浜には風車のほかに目立つものは何もない。
だから風車が倒れたら、それは一大事だ。
視界に横のラインしかなくなってしまう。
そんな風景に慣れてしまったら、
いずれまともに立てなくなる気がする。
立っている自分の体が本当に垂直になっているのかどうか、
きっとわからなくなってしまう。

ここに複雑なものは何もない。
だからそんなことを考えて暮らしている。

ここに複雑なものは何もない。
敢えていうなら、風車のほかには家がひとつある。
それは80%が砂浜に埋まっている。
巨大なミサイルの発射ボタンのように、
地表から50cmくらい、天井にあたる硬質な正方形が突出している。
その中心にある丸いマンホール形の入り口から入ると、
中も正方形に囲まれた無機質な空間になっている。
大きさは、ヒト1人と、犬2匹と象が1体が入ってぎゅうぎゅうになるぐらいだ。
家というよりも、箱。
その箱は、外も中も白い。
でも色がくすんでいるから砂との見分けはつく。
アイボリーというほど、趣はない。

僕はそこに住んでいる。



16℃。


空気が少しだけ痛い。

旋回する風車の影の下から、上を見上げる。
眩しい。空が鮮やかに青い。
不自然な感じさえする。

冷えた空気の中では、海も空も格別に青く感じる。
原則の青だ。イデアの青。
イデアの砂、イデアの家、イデアの風車。
この場所はそんな風に感じる。
「永遠不変で、完璧、あらゆるもの雛形」
「最高度に抽象的な完全不滅の真実の実在的存在」
イデアと言ったけれど、そんなつもりはない。
そんなものはない。
生まれる前のことなんてわからない、死んだ後のことも。
生まれたことや死んだことさえも、自分自身では認識できない。
だから、永遠とか、完璧なんてものはない。
他に表現の仕様がない。それだけだ。

ところで、
いったいここはどこなのだろう。
もう長いこと、毎日毎日、広くて限りのない海岸を歩き続けてきたけれど、
さっぱりここがどこなのかわからない。
どこをどう歩いても、結局。
風車と箱のあるこの場所に戻ることになる。



急に風が吹いて、砂が巻き上がった。
髪がグシャグシャになり、大量の砂が顔をかすめていった。
いつもの現象だ。
この数秒、何も見えなくなる。
最初は驚いて、荒れる砂に囲まれて身を固くしていたが、
もう慣れた。
ただほんの数秒、砂に視界をふさがれるだけ。
だからその間、寝ることにした。
ここにきてから思いついた遊びだ。
瞬間、意識を、意識的に飛ばす。
意識的に、無意識になる。
これがやたらと難しくて、飽きない。

でも一度だけ成功したことがある。
今日のような少し肌寒い日で、砂は高く舞い上がった。
その中にいたのはほんの2、3秒。
意識を完全に無くして、リアルな夢を見た。
店にいた。確か、そこには行ったことがある。
誰かと話をしていた。音楽が流れていた。昼間から赤いカクテルを飲んだ。
あんなにはっきりと見た夢なのに、もう曖昧だな。
テーブルに向かい合った人の笑顔だけを、しっかりと覚えている。


砂が通り過ぎると、目の前に白い骨格が現れた。


化石。


砂の混乱が去ると、現れる。
ただ果てしなく続く砂浜に、化石が孤独に立つ。
穴の空いた頭に長い首、その先に細く並ぶ肋骨が2mほど続く。
ヒレだか脚だかわからないものが、骨格を支えている。
たぶん、海竜のような動物だったんだろう。

ここにきてから、いろんな化石を見た。
どうやら、砂の下にまだいるらしい。
なぜか昼間になると、
高く砂を巻き上げ、不意に地表に出現する。
どれだけの動物が埋まっているのか、今のところ想像がつかない。





ここを毎日歩くようになって、わかったことがひとつだけある。


砂の下には時間がある。液体に浸された時間が。
だから足が沈む。
もつれて、動きを捕られるが、今のところはなんとか歩き続けている。


ここを毎日歩いているが、それ以外はなにもわからない。
それまではわかっていたことも、忘れてしまったような気がする。
忘れたことの割合のほうが、大分多い。





歩き疲れたら、家に帰る。それは覚えている。
帰ろう。




ジャケットを脱ぐと、普段よりも砂が入っていて、
それはパラパラと床に落ちた。

正方形の家には、ペンと紙がある。
文字も覚えているし、言葉も失ってはいない。
ペンや紙の使い方もわかる。
目的を忘れてしまったから、使っていない。
いつもはただスチール椅子に座り、
ぼんやりしているうちに夜がきて、眠る。
今日はなぜか、知らず知らずのうちにペンを手に取っていた。
もちろん、これが何をするためのものなのか思い出したわけではない。
スタンドライトも点けず、
ただペンを持ち、紙と直面し、しばらく固まっていた。


「16℃」

やっとそれだけ書いて、ペンを置いた。


どうしたんだろう。
自分自身が全くわからない。


時計は持ってないけれど、僕は小さな温度計を持っている。
16℃は今朝の空気の温度だ。
僕の手は、そんな意味のない数字を書いた。
何のために。


確かここにくるまえは、理由のわからないことが一番辛かった気がする。
今は全てがわからなすぎて、
平気になってしまった。

でもペンを置いた手が、少し震えていた。
慣れないことをしたからだろう。


左手で紙をつかみ、ふたたび外へ出た。
外はすでに暗かった。
足が沈んでしまわないように気をつけながら、砂浜を歩いた。
日が落ちた直後で、海と空の境界線が曖昧になってきている。
もうすぐ、全部が夜になる。
紙を水平に持ち、その消滅しそうな境界線を測った。

境界線。
紙と水平線のラインがぴったりと重なり、日が完全に落ちた。

あぁ、真っ暗だ。

目が見えなくなると、体の感覚が冴える気がする。
紙を持つ指と指の間に、
さっきまでは気がつかなかった細かな砂があるのを感じた。
それを払おうと手を開くと、砂がさらさらと少し零れただけで、
紙が消えていた。

消えた。


風はなかった。飛ばされたわけではない。
指を離した覚えもない。
でもどこにもない。
もう一度手のひらを目の前にかざしてよく見てみたけれど、
消えた。





頭痛がする。
歩き疲れたから、家に帰ろう。
そして、眠ろう。


明日の朝になれば、また青い海が見れる。
砂浜を歩いて、化石に出会って、
とにかく沈まないように歩いて、
そうすれば少しずつ、
なぜここにきたのかわかる気がする。











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# by Dasein100-1 | 2005-10-29 09:12 | 028 16℃(砂上)

027




未来




僕は純粋な「消費者」です。
何も生み出しはしない。
ただただ貪り、発散し、動作するだけです。
たまにその方法に頭を悩ましたりもしますが、
つまりは常に、単調に、それを続けるだけです。


ええ、いいですよ。録音するなり、なんなり。
そうですね、ここんとこ取材の方が何人か見えました。
ついさっきもどこかの出版社の方が帰られたとこで。
いや、大丈夫です。疲れちゃいません。よく食べてるんで。
どうぞ、続けてください。

あ、その前に窓開けていいですか?
実のことを言うと、この部屋いつもは冷房かけないんですよ。
外からいい風が入ってくるので。
え?ナチュラリストじゃないですよ。別に。
ただ、そのほうが気持ちがいいんです。
気分の問題です。
いや、快楽主義者ってわけでもなくて…
貴方たちは本当にこういった質問が好きなんですね。
正直、うんざりしますよ。
あ、すいません、つい。
単純なんです。僕は。
ね、心地いい風でしょう。

貴方、今メモ帳に「浪漫主義者」って書きましたよね。
面白い人だなぁ。


はじめに言いましたが、僕は純粋な「消費者」です。


先週の新聞ですか、読みました。
いまや純粋な「消費者」は絶滅の一途をたどっている。という記事ですよね。

確かに、風当たりは強いですよ。
僕の周りの人達も皆、消費することをやめようとしている。


ミドリムシ?でしたっけ。中学生のときに顕微鏡で見たアレです。
植物のような動物のような微生物。
植物の特徴である葉緑体を持ち、
太陽光から自己生産的にエネルギーを生み出し、
動物のように動く。
合ってますか?すいませんうろ覚えで。
僕も「すごいなぁ」と思いました。
食べてないのに、動ける。


貴方も、食事をまるで取っていない。
しかし本当に、いい顔色をしてらっしゃる。
活き活きとした、鮮やかな緑色。


面倒な排泄もない。
弱いものを貪る罪悪感もない。
栄養過多という醜い体を気にするストレスもない。


新聞で読みました。発明したのは日本人らしいですね。
素晴らしい。
ほんの数分の手術で、不便で罪悪を抱えた体から抜け出せる。


わかっていて、なぜって?
環境をボロボロにしてまで、なぜ消費を続けるかって?
こんなに素晴らしい発明がありながら、なぜ拒絶するのかって?




気持ち悪いからですよ。
その色が。

あぁ、つい。
すいません。僕は極めて単純なんですよ。


なんだか
貴方がたはとっても偽善の色をしていらっしゃる。




僕は貪り続けます。それ以外に何もするつもりはない。
貴方のように
「生産者」で「平和主義者」で「ジャーナリスト」で「アナリスト」な
素晴らしい葉緑体になる気なんかない。


なぜ、なぜ、ってうるさいな。

だから何度も言ってるように、
気持ち悪いんですよ。

えぇ、わかってます。
働くとか、何かを生み出すのって大変なんですよね。
貴方には、貴方を必要とする存在がある。
僕は、僕のために消費するしかない。
無力感に苛まれます。

でも、結局。
貴方もただ、生かされていることに不安なだけじゃないんですか。



日が落ち始め、射光が窓から部屋に入る。
目の前の記者は全身を震わせ、その内部でエネルギーを生産する。

僕は目を伏せた。



「全ての生き物が役に立つ世の中になれば、不安などなくなります。」

あぁ、そうかもしれません。





間違っているのは僕であって、
たぶん素敵な未来になるのだろう。

全てが鮮やかな緑で塗りつぶされ、
偽善と善の境界線など無くなった未来に

それは 素敵な



あぁ、
すいません、つい吐き気が。













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# by Dasein100-1 | 2005-07-25 22:44 | 027 未来

026




初花凛々




ふわふわのタオルを鞄に入れて、薄いオレンジの傘を持って外へでた。

また雨だ。
暗くて、じとじとして、気分が滅いるなぁ。


薄いオレンジの傘は、それほど小さいわけではない。
でもいつも、傘をさしても意味のないことが多い。
結局、到着する頃にはずぶぬれになっている。
おかしいなぁ。
スカートの端が濡れて濃くなる。

早朝。
人気のない社内で、微かに物音がした。
奥のデスクから、カチャカチャとキーボードが鳴る。
中谷だ。

「おはよう。」
「おはよう。」

珍しい。いつも遅刻ギリギリにくるのに。
こんなシチュエーションは運がいいのか、悪いのか。
たぶん、悪い。



「雨だね。」
「うん、梅雨だね。」
「早く過ぎるといいよね、梅雨。」
「ホント。」



「梅雨ってじめじめするよね。」
「そうだね。早く終わって欲しいね。」



沈黙。




サイアクだ。

話そうとして、話し出す。そんな感覚に囚われる。
「無意味」で「くだらない」会話を選んでしまう。

意識するといつもこれだ。
もしくは無理をして、無意識に、トゲのある言葉を吐くか。

そういう風なことばかりしてきた。
人を好きになると疲れるんだ、ということがわかった。
だから、やめる。それで無しにする。
繰り返す。


「雨降ってるよね?」
「え?」
「外。雨だよね。」
「うん…そうだよ。」


この不自然な空気は耐え難い。
早く誰か来ないかな。



「暇だったらでいいんだけど。」

中谷はすごく眠そうな顔をしていた。
もしかしたら、昨日はここに泊まって仕事をしていたのかもしれない。

「なに?」
「ちょっと駅まで送ってくれないかな、傘忘れたんだ。」
「帰るの?」
「うん、まぁ似たようなもの。」

まだ朝の8時で、始業時間までに余裕はあった。
誰かがくる気配もなかった。
なのに、こう答える。

「誰かの置き傘があるんじゃないの?使っちゃえば?」

拒絶することが癖になっている。
今までの歴史を考えると、
このまま時が経つにつれ徐々に距離ができて、結局友達以下の関係になる。


「うーん。オレもうここ戻ってこないから。悪いじゃん。」
「明日返せばいいんじゃないの。」
「もうずっと戻ってこないんだ。だから無理。」

中谷は目をこすりながら、帰り支度をする。

「ずっと?」
「そう。ずーっと。」
「…会社辞めるの?」
「うん、まぁ似たようなもの。」


中谷の机は、昨日と一昨日と変わらず雑然としている。
パソコン、書類やファイル、趣味のフォトグラフ、コーヒーカップ、非常食。
会社を辞める人の机には見えない。
中谷は声を出しながら大きく伸びをして、よし。といいながら鞄を手にした。


「送ってくれる?暇だったらでいいんだけど。」
「いいよ。」


外へ出ると、さっきよりも雨が少し強くなっていた。
もっと雨がバカみたいに降って、
洪水がおきて、雷や風でそこらじゅうが荒れ狂って、
めちゃくちゃになればいいな。
そしたら、話題がなくて困ることもない。

傘を開く。

「オレンジ好きだっけ?」
「ううん、別にそうでもない。たまたま。」

たまたま選んだ色の下で、沈黙がつづく。
出社する人の波を逆走する。

数ヶ月前、中谷は何でも話せる相手だった。
でも、何を話していたか思い出せない。
どうやって話をしていたか思い出せない。

沈黙に疲れて、
触れるべきか、触れないべきか迷っていた話題を出す。

「本当に辞めるの?」
「いや、辞めるって言うか…逃亡。」
「逃亡?」
「たぶん一生会えなくなるよ。そういう危険な仕事をたった今してきた。」
中谷はチラッと自分の脇に抱えた鞄を見て、ニヤッと笑った。
私は無視した。

「本当だって。」
「もう少し仕事真面目にやったら?」

軽口のつもりだったのに、黙られると困る。
辛くなってきた。

薄いオレンジの傘は、それほど小さいわけではない。
でもいつも、傘をさしても意味のないことが多い。
結局、到着する頃にはずぶぬれになっている。
特に2人でなんて、無理があったみたいだ。

地下鉄の入り口についたときには、
私も中谷も、髪から服からほとんど雨でびしょびしょだった。

「あんまり送ってった意味なかったね、ゴメン。」
「いや、こっちこそゴメン。」

もうここにいる意味がなくなった。
機会を拒絶することが癖になっている。
私はためらわず『じゃあ』と言ってすぐに背を向けた。

「本当なんだ。急な話だけど、本当にもうあの会社には戻らないんだ。」

後ろから声がして立ち止まる。
地下鉄の入り口で、中谷は少し悲しそうな顔をする。

「だからって今特別に何かを言わなきゃいけない関係じゃなかったけれど。」

よくわからないけれど、本当に会えなくなるらしい。
中谷の表情で、一瞬にしてその実感が伝わる。
だとしても、今更。
例えば「実は前から」と言ったとして、どうにもならない。

「この先何かが起こる可能性がないのなら、昨日と一昨日と同じ挨拶をしたほうが楽だと思う。」
「そうだね。」
「本当にもう戻ってこないの?」
「本当に。」


私が泣く意味がわからない。
ついさっきまで普通なふりをしていたのに、急にわけがわからなくなった。
涙腺がゆるい。得したことは一度もない。
あまりに顔がぐしゃぐしゃになってきて、
近づいてきた中谷を拒絶するように、鞄からタオルをだして顔を覆う。

中谷は困ったような笑顔で言う。
「用意がいいね。」
腕を伸ばして軽く背中を抱えてから、固くタオルを握った手をほどいて
「いつか、また。」
と勝手に柔らかい握手をして去っていった。


何も言えなかった。また同じことをしてしまった。
会いたくても会えなくなる人が増えた。
気分が滅いるなぁ。



今日付けで、中谷の名前は会社のブラックリストに載った。
この業界では珍しい話じゃない。





梅雨があけた。


「おはようございます。」
「おはようございます。」

ビルの前に毎朝立っている警備員さんと笑顔を交わす。
ただ挨拶をする。

体の一部を、例えば爪の先をほんの少し、動き出した電車にぶつけるような感じ。
ホームにはたくさんの人が整列している。
電車の中にもたくさんの人が並んで座っている。
私はホームの際に立ち、電車に指を伸ばす。
ほんの一瞬2つの世界がかすめる。

カツン



それ以上に世界が交錯することは稀なことだ。
たまたま選んだ色の下で、どんな話をするのかなんてことは
たいしたことじゃない。

でも、宇宙的な確率を持つ偶然。
会いたいと思うことは、
ただ単純に、一番重要なことだといつも思う。



ただ単純に。














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# by Dasein100-1 | 2005-06-19 00:13 | 026 初花凛々

025








男は答えなかった。
女は無表情で、テーブルにあったコップの水を男に浴びせた。
薄い青色のシャツが濡れて肌に貼りついた。
それでも男は黙っていた。

「ばかにしてるんでしょ?はじめから。」

女はイライラと爪を噛んだ。
そして、空になったコップを投げつけた。
男はよけなかった。それは額にガコンとあたって
首が少し後ろに傾いた。
コップは床に落ちて割れた。


店内は静まり返った。

もともと店にはその男女と、店員がたった1人。
女が音をたてなければ、いたって静かな店だった。


男は首を後ろに傾けたまま、天井を眺めていた。

無愛想な店員がテーブルにパスタの皿を2つ運んできて、
黙って男女の前に並べた。
注文したものが逆だったのか、
女は乱暴に並べられた皿を入れ換えた。


男は天井を眺めていた。
女は一人で貪るようにパスタを食べ始めた。


男は天井を眺めていた。
女は無言で食べ続けた。あっという間にパスタは皿から消えた。
そして店員を呼んだ。


「フルーツタルトと、アイスティー。」


男はまだ天井を眺めていた。
女は軽くため息をつき、幾分穏やかな表情でタルトとアイスティーを迎えた。


男はそれでも天井を眺めていた。
女は赤いフルーツソースのついたフォークをなめ、ストローをくわえた。


男は天井を




カチャ

店に1人の客が入ってきた。

見覚えのある顔だ。
首を傾けて天井を眺めている男と全く同じ男だった。


女はドアの方を振り返り、笑顔で手をふった。
そしてテーブルの伝票を取り、小さいバックを抱えて席を立った。







店員は空いた皿を手に積み、
もう片方の腕で椅子に放置された男の体をひょいと持ち上げた。
男は首を傾けたまま。
飲食店のガラスケースにある見本のように動かなかった。

店員はチラっと床の割れたコップを見たが、
自分の仕事じゃないといった顔で、厨房に戻っていった。





厨房にテレビがあるのだろうか。
ブゥンという電源の入る音とともに騒がしい声が聞こえてきた。
国会中継のような会話の応酬が聞こえる。


質問:
なぜ、同一人物である男が2人存在したのでしょうか。
返答:
その質問は、なぜ昨日の自分と今日の自分が同じ人物だと言えるのか、という質問と似たようなものです。

質問:
なぜ、店員は一人の力で成人男性を持ち運ぶことができたのでしょうか。
その男は特別軽い人だったのでしょうか?それとも軽い物質に変わったのでしょうか?
返答:
男の質量は一定で約62kgです。質量の問題ではありません。
「最近の高度な回線技術によって容量が大きい画像も瞬時に表示されるようになった。」
という仕組みと似たようなものです。

質問:
あなたのおっしゃってることがよくわかりません。
返答:
質問の意味がわかりません。



電源の切れる音。





私服に着替えた店員が、ダルそうな顔でぶらぶらと店内を横切って店を出て行った。

私服に着替えた店員が、周囲をきょろきょろと見回しながらテーブルの位置を直し、落ちたガラスの破片を拾い上げ、一通りチェックを終えると神経質そうな動きで店を出て行った。

私服に着替えた店員が、鼻歌を歌いながら店の電気を消して出て行った。






質問:
なぜたった1人しかいない店員が、3人店から出て行ったのでしょうか?
返答:
その質問は、なぜ昨日の自分と今日の自分が同じ人物だと言えるのか、という質問と似たようなものです。














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# by Dasein100-1 | 2005-06-01 08:38 | 025 店

024




モトモト




何をしたらいいかわからなかった。
だって、みんなが水浸しになって泣いていたから。
泣くなと言っても泣くだろうし。

雨さえあがれば、すぐに泣き止むのだろうと思っていた。
習性として。
僕の家族はいつもそうだから。


そう、習性として。
僕の家族は雨が降ると泣き出す。


泣くと言っても、顔がぐしゃぐしゃになるとか、
息が喉の奥でぐぐっとつまるとか、
そういう類の泣き方じゃない。
ただ、スイッチが入って、ひたすら涙が出てくるのだ。
悲しいというより、泣くことに抵抗しないという感じだ。
雨が降るとそうなる。


僕が知る限り、他の動物はどうも違うみたいだ。
隣のレトリバーは大きな傘をさす。
モグラは本を持って自慢の地下室に降りていくし、
シマリスは駅前のカフェで雨宿りをする。

つまり、みんな泣かない用意をする。



モトモトは泣く。


僕らはあまり世間では有名じゃない動物の種類で、
「モトモト」という。
変な名前だとよく言われる。

マルボーロ目・タール科・モトモト
が、正式名称。
見た目は犬に近い。色は白い。
気性は優しい。


モトモトの仲間はだいたい鉄橋の見える丘に住んでいて、
電車が鉄橋を通る音に合わせて歌うのが好きだ。
その声はゴォーという音にかきけされて、丘の下までは聞こえない。
もう827歳になる長老は
「モトモトはシャイな動物だからな」
と言っていたが、少なくとも長老と僕はシャイではない。

僕が思うに、みんな歌が下手なだけだと思う。
モトモトである僕でさえ、モトモトの歌う声をまともに聞いたことがない。
歌うことは難しい。


だから歌がうまい動物は素敵だと思う。
天気がいいと聞こえてくる声を聴くと、
すごいな、と思う。



こんなことを話すのは、昨日のことを思い出したからだ。


昨日は一日晴れていた。
本当に暖かくていい天気で、川沿いの土手を散歩していたら、コザクラインコを見かけた。
「久しぶり。」
「あ、モトモト。こんにちわ。」
「いい天気だね。」
「ホント、気持ちいい。歌っていい?」
「いいよ。」

コザクラインコはよく歌う。
長いときは5分も10分も歌ってる。
でも今日は歌の途中でフッと息を止め、振り向いた。

「知ってた?昨日隣町のジャコウネズミ花火工場が爆発したんだって。」
「爆発?」
「そう。突然ネズミたちがじゃわじゃわと工場から溢れ出てきたんだって。最後の1ッぴきが出た5秒後に爆発!ずーっとお祭りの音がしてたって聞いたよ。バーンババンって。」
「コワイなぁ。」
「なんで。楽しそうじゃん。」
「だって、爆発だよ?爆発でしょ?」
「お祭りだよー。」

僕の頭の中には、
コンクリートや鉄管がはじけとび、赤い悲鳴をあげて工場が壊れていく映像があって、

たぶんコザクラインコの頭の中には、
鮮やかな色の花火が、工場祭りのように無数に打ち上げられている映像があったのだろう。

コザクラインコは首をかしげた。
「うーん、どうしてかな。モトモトは泣き虫だからかなぁ。」
「そんなことないよ。」
コザクラインコは、めちゃくちゃ泣き虫のくせにと笑って、また歌った。



そして、今日の話。

今日は朝から雨が降っていた。
目が覚めたら全身が濡れていて、
それに気がついたときいつものようにぼろぼろと涙がでてきていた。
モトモトである僕らはそれが習性だから、当たり前のようにみんなそんな状態で、
「おはよう。」
と声をかけあった。
「ずぶ濡れだね。」
「ホントだ。」

いつもと同じで、僕らは散々泣いた。
いつもと違ったのは、丘から見えるはずの鉄橋がなくなっていたことだった。
涙のせいで見えにくくなっているわけじゃなかった。
ごっそりとなくなっていた。
その代わりそこには、渦を巻いたコーヒー牛乳が荒れ狂っていた。
洪水だ。
強い雨がずっと降り続けて、その勢いはいつまでも止まらなかった。


いろんな家や物がぐちゃぐちゃになっていた。
こんなことは初めてだ。



何をしたらいいかわからなかった。
だって、みんなが水浸しになって泣いていたから。
泣くなと言っても泣くだろうし。

レトリバーも、モグラも、シマリスも。
コザクラインコも泣いていた。
僕ら以外の動物が泣くのを初めて見た。

でも、晴れればすぐに泣き止むのだろうと思っていた。
習性として。
僕の家族はいつもそうだから。


みんな息ができなくなるぐらいしゃくりあげて泣いていて、
苦しそうで見ていられなかったけど、
僕はいつも悲しくて泣いてるわけじゃなかったから、
泣かなくなる方法を教えてあげることもできなかった。
コザクラインコも目を真っ赤にして、嗚咽していた。


とにかく雨があがるといいな、と思った。
雨が上がれば、自然と泣かなくなる。




今日が過ぎた。


次の日は、晴れた。
雲もなくて、空の色も濃い青で、とてもいい日だった。

僕はすっかり涙も体も乾いて、うきうきしながら町へでた。
鼻歌を歌ってみたけど、ぶつぶつ呟くような音しかでなくてやめた。
今度コザクラインコに歌を教えてもらおう。

木の枝や、ぼろぼろになった家の破片が辺りに転がっていた。
折れ曲がった自転車や、水浸しになった誰かの教科書、
泥だらけになったお菓子の袋や、空のCDケースなんかも散らばっていた。


勢いは落ち着いたけど、まだ濁った茶色い川を見て、
僕は、やっぱりコーヒー牛乳みたいだ、と思った。


少し高台になったところに、たくさんの動物が避難していた。
僕は手を振った。でも反応がない。

レトリバーがぼんやりと宙を見ている。
モグラもシマリスも、疲れた顔でぐったりしている。

コザクラインコがまだ泣いている。

僕はいそいで高台にかけのぼり、声をかけた。
「どうして泣いてるの。」
コザクラインコが泣きすぎで腫れた目を大きくしてびっくりした顔をした。
「どうしてって、どうしてそんなこと聞くの?」
「雨が上がったのに、泣いてるから。」
「だって、町がめちゃくちゃになったでしょ。」
僕は町を見下ろした。
「うん。でも、なんでまだ泣いてるの?」
コザクラインコは今までで見たこともないような悲しい顔をした。
それで、もっと泣いた。


ショックだった。
なんでそんな風にしてしまったのかわからなかった。
とぼとぼと高台を降りる途中、背後でモグラの声がした。
『何しにきたんだろうね。』
シマリスの声がした。
『しょーがないよ、あいつモトモトだもん。』
僕は半分振り向いてみた、
でも2人の姿を確認する勇気がなくて、そのまま歩き去った。





モトモトか。


僕は「モトモト」について調べてみた。

正式名称:
マルボーロ目・タール科・モトモト

見た目は犬に近い。色は白い。
気性は優しい。

生息地は河川や海に近い丘。
魚や穀物を好んで食べる。
天敵は無し。同種間の争いも見られない。
ウイルスや病原菌に対する抵抗力も強く、
極めて長く生きることで有名。
鳴き声は不明。



知りたいのはこんなことじゃない。
モトモトが雨に泣くことについてだ。
そして、雨がやむと泣きやむことについて。



「何してるんだ。」
僕が動物図鑑を抱えて丸まっていると、長老がそれを覗き込んだ。

「なんだ、自分のことなんか調べて。気持ち悪いやつだな。」
「違います。コザクラインコを泣かせてしまって、その理由がわからなくて。」
「恋かな。」
「違います。長老、教えてください。」
「ふむ。827年前までのことだったら何でも教えてやれるぞ。」
「モトモトが雨に泣くことについてです。」
「それは、わからん。」

長老は僕の肩にぽんと手をおいてからどこかへ行ってしまった。
なんだよ。長老のくせに。

僕がふてくされて寝ているところへ長老は再びやってきた。
白い粉をふいたような重そうな本を抱えていた。

「お前が私に聞いたのは、827年前よりもっともっと昔の話だからな。モトモトに伝わる古い本を持ってきてやった。」


カビ臭い。
本には、文字がなかった。
多分昔の絵描きが一枚一枚丁寧に描いて仕上げたんだろう。


僕はその本を、10時間かけて読んだ。
絵のひとつひとつに、ずっしりと歴史が練りこまれていて、
頭の中がいくつもの時代の映像でぐっちゃぐちゃになった。



本を閉じて、大きく息をついた。結局、わからなかった。

僕は、ふてくされて寝た。





夢を見た。

まだ町も工場も鉄橋もない時代だ。
広い草原に、モトモトの先祖が群れをなしていた。
突然雨が降って、洪水になって、みんな溺れてしまった。
なぜか、僕はその場所にいてたった一匹生き残った。
雨の中で、泣いていた。

雨があがった。
何もなくなった草原に日が射した。
誰もいなかった。




目が覚めた。


そうか、泣くのなんてくだらないんだな。
でも、習性として残っている。
泣かないことも、同じ。


習性として。





コザクラインコに会いに行ったら、彼女はまた泣いてしまうだろうか。
『きみはモトモトだから』って
笑って許してくれるかな。



明日雨が降るといいなぁ。
そしたらたぶん僕は、いつものように泣くだろうから。
こないだのこと、許してくれるかもしれない。


そしたら歌を教えてもらおう。




僕は本を枕にして、もう一度827年より昔の夢を見た。
昔のモトモトもやっぱり歌が下手だった。













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# by Dasein100-1 | 2005-05-25 01:12 | 024 モトモト

023



トーラー



それ、裏だよ。
「え?」
またお前Tシャツ裏返して着てる。タグ見えてるよ。
「ほんと?」


今日はいい天気だ。
俺は友達と2人で、鹿児島の暑い1日を過ごしている。
あぁ、夏っぽい。
鹿児島は生まれた土地だが、
いまいち肌に合わない。暑すぎるんだ。


通称『ガリ』
本名、三谷真。
横にいる友達の名前。


ガリの昔から治らない癖は3つある。
Tシャツを裏返して着る。
違う靴下を片方ずつ履く。
青信号が点滅すると、道路の真ん中で硬直する。

ガリとは同級生で、お互い今年で28になる。
俺は東京で仕事をするためにここを出た。
ガリはこの町から出たことがない。
出せない。と、彼の両親は言っていた。

とても不思議なことなのだが、ガリは大人になれないらしい。
まだ歯も小さいし、背も小学生より低い。
町を歩いてると人が振り返るぐらい、体が華奢で小さい。
加えて頭が悪い。あきれるほど悪い。


同じように成長してきた頃は気付かなかったが、
それは才能だ。
と、今は思う。



俺は田舎に帰っても、家にはほとんど居ない。
息苦しいからだ。
5分もたたないうちに外に出て、ふらふらと町を徘徊する。
『桐島さんちの次男は、たまに実家に戻ってもふらふらしている。』
『いい年して、あの頭の弱い子と遊んでる』
息子が界隈へネタを惜しみなく提供し、両親の顔はひきつり、
家の空気はどろどろと濁りだす。
申し訳ない。
なんて、まさか。微塵も思わない。
腐った大人の醜い表情を目撃することが毎回楽しみだ。
俺こそが世界で最も悪趣味で下衆。
いや、自覚があるだけマシなんだ。

こんな話は、飽きたな。





ガリは首を左右に何度もひねって、
タグが飛び出してることをやっと確認する。
「あれぇ?」

だから裏だって。


Tシャツを脱ごうとしてぐにゃぐにゃともがく姿が、
罠にかかった動物みたいだ。

ぼさぼさの頭とガリガリの体で、
脱いだTシャツを丁寧に裏返して着なおそうとする。
両腕を大げさに動かして、必死になって着る。
なんでこうもっと、スムーズに生きれないんだろう。コイツは。



スムーズに、といえば。
昨日見たニュース。B氏の話は実にスムーズだった。
頭をなでて、いい子いい子してあげたくなるぐらい優秀だった。
100%の出来。
つまり、0%の出来。

まぁ、『想定の範囲内』。



今ここは鹿児島の田舎で、
世界のニュースなんかはたいして意味がない。
大げさで肉体的なハリウッド映画となんら変わりはない。




「うわ、つめてっ。」

突然水しぶきが飛んできた。
長いホースを引きずってきた爺さんが、
畑の脇道に座り込んでいた俺とガリに、
嫌がらせのように水を飛ばす。


「トウモロコシに水撒くから手伝え。」


昔からどうしても苦手なものが3つある。
生野菜と、蚊取り線香と、年寄りだ。

骨ばった黒い顔に、白い無精ひげを生やした爺さんが
俺を睨むようにして目の前に立つ。

「ホース持て。向こうまで引っ張ってくから。」

ガリが飛び跳ねるように立ち上がり、
スキップをしながらホースを掴んだ。
仕方がなく俺も腰をあげ、砂を払い、
言われるがままに重量感のあるホースをずるずると引きずって歩いた。
どこから延ばしてきたかわからないが、相当長いようだ。
どこまでもどこまでも続いていく。
ホースにはところどころに小さな穴が空いてるらしく、
乾いた道に水の跡をつけながら進んでいく。



「オマエはなんで真と遊んでるんだ。」
「え?」
真、なんていう名前が出てきてピンとこなかったが、
当の本人はいつの間にかホース運びに飽きて、はるか後ろでアリと戯れていた。

「なんでって…楽しいから。」
「そうか。あいつはイイ奴だろう。」
「そうですね。」
「土に近いからな。」
「土?」
「背が低いだろう。普通の人間は背が伸びて、くだらなくなる。」
ブルルルルというヘリコプターの音がして、
爺さんも俺も空を見上げた。
「土から離れていくからな。」
ブシューッと音をたてて、爺さんは水を勢い良くまき散らした。
夏の空気に霧が舞って、光った。

遠くから金切り声をあげながらガリが嬉しそうに走ってきた。
はしゃぎながら爺さんに飛びつき、ホースを奪って振り回す。
俺も爺さんもビシャビシャになりながら、笑った。



畑の水撒きは6時間かかり、日が暮れ、
俺は夕食をご馳走になった。
それから、静かに扇風機が回る居間で、
爺さんと2人何をするわけでもなく、虫の音がする暗い庭を眺めていた。

「あの。」
「ん。」
「俺、人を殺すかもしれません。」

爺さんはたいして驚きもせず、つまようじで歯の掃除をしていた。

「仕事か。」
「まぁ、そうですね。」
「儲かるのか。」
「そこそこ。」

沈黙。扇風機が回る。
爺さんはあくびをして立ち上がり、
湯気のたったトウモロコシを持ってきた。


「うまいか。」
「はい。」


僕は翌日トウモロコシを持って、鹿児島を去った。









「本日未明、元国防長官K氏が頭を銃で撃たれ、死亡しました。
 K氏は肝炎の手術後で、都内の病院で療養中でした。
 容疑者は20代後半、現行犯逮捕され現在取り調べを受けていますが
 身元、職業は一切不明です。
 極度の錯乱状態にあり、精神鑑定の必要性が示唆されています。」


ここに至るまでにはたくさんの話があるが、
今は省略しよう。

俺は青いジャンパーをかぶされて引きずられている。
隙間から見える空は青かった。

背が伸びて、余計なものが見えた。


「本日未明、療養のため東京都内の国立病院に入院していた
 元国防長官K氏が射殺されました。」
 




鹿児島の片田舎に速報が流れる。
そんなニュースは、
大げさで肉体的なハリウッド映画となんら変わりはない。








ガリはホースで水を撒く。
爺さんがトウモロコシをもぎ取り、背中のカゴはそれでいっぱいになる。

土のにおいがする。











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# by Dasein100-1 | 2005-05-02 00:28 | 023 トーラー

022




ロス



遺伝子を組み替えられた猫が公園を走ってたなんていう事件は
もうかなり昔のことで
今問題になっているのは
その猫をどうやったらカンパンの代わりにできるか
つまり非常食にできるか

ということだ。


シュールな世界だね。本当に。


哲学科で一緒だったタブチはあの頃「偽善は善だ」と言っていたが、
そろそろ考えを変えただろうか。



彼はその非常食を1つストックしている。
つまり生まれのオカシナ猫を
地下室で飼っているらしい。


あいつがいう善なんて、笑っちゃうね。



彼が話したことを反復しよう。

「この猫は、ある大学の研究所で動物実験の対象として使用されていました。
 生物が生きていくのに重要な『サーカディアンリズム』を司るSCNという細胞を
 破壊すると、睡眠覚醒のリズムがぐちゃぐちゃになることはよく知られています。
 またその細胞に強く発現するタンパクが正常につくられることが、
 リズムをコントロールするのに重要なのですが、
 その機能を担う部分の遺伝子をいじられてしまったのがこの猫です。
 
 つまり、この猫は起きるとか寝るとかがよくわからなくなってる、
 ということです。

 起きるとか寝るとかがよくわからなくなってるということは、
 生きるとか死ぬとかがよくわからなくなってるということです。
 
 つまり僕は、
 地球を救いたいのです。」





地球だなんて笑っちゃうね。


見たんだ。
タブチは、「SCN MUTANT 001cat」というタグのついた猫を
こっそり「タマ」と呼んでいた。



笑っちゃうね。

「どっちかというと地球より猫のほうが好きです。」

そう言えばいいのに。












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# by Dasein100-1 | 2005-04-24 01:51 | 022 ロス

021




Honeycom.ware




今朝、ニュースに友人の池田が出ていた。

「突然地面が揺れて、爆風。もうびっくりしちゃった。
鼓膜破れた人いたらしいよ。あ、僕はヘッドホンしてたから大丈夫。
でも自慢のアフロに灰が積もって大変大変。頭重くって。」

画面下には『現場付近にいたIさん』というテロップ。


戦争、戦争、戦争。
もう慣れてしまった。
2100年に入ってからずっとだ。
たぶんこの先もずっと、だろう。
死ぬことに鈍感になるのは、幸せなことだ。

少し前の時代の人たちは、寝たいのに寝れなかったらしい。
そして死にたいのに死ねなかったらしい。
大変だったと思う。

僕らは楽だ。
寝たいときに寝れる。
死にたいときに、死ねる。
幸せだと思う。


「あのさ。」
ぼんやりしていたら、彼女が僕の袖を引っ張った。
僕らは別に何をするわけでもなく、商店街を並んで歩いていた。
「聞きたいことがあるんだけど。」
「なに。」
「ピアノのやめたの、なんで?」
それはあまり聞かれたくなかった。
「なんでって、飽きたから。」
諦めた、と言うのが正しい。
僕は冴えないピアノを弾いていた。
本当に冴えない、自分でもうんざりする音ばかり鳴らしていた。
「なんだよ。」
彼女は黙って僕を見て、それから一人何度も頷いていた。
表情から読み取れない。
呆れてるのか。
がっかりしているのか。
安心しているのか。
「なんだよ。」
イライラしながら言ったのに、思った以上に無反応だった。
「別に。」

あ、そう。


交差点で、
僕らの前を、兵器を積んだトラックがたくさん横切った。
1台、2台、3台…
砂埃がたって、目の前が一瞬曇った。
揺れる荷台で兵器がぶつかり合うガチャガチャした音がした。
何台も何台もトラックが過ぎる間、
僕は上を見ていた。青い。
「雲、少ないね。」
視線を下げると、彼女も上を見ていた。
「そうだね。」

お互い空を見ていたわけじゃない。
異質なものが飛んでることを恐れただけだ。

トラックは全て行ってしまった。
反対側の歩道に、ボロボロの服がまるめて捨てられている。
目を細めて見てみると、それには手足があってまだ動いていた。

遠くで、パパパパという乾いた銃声がした。


彼女は僕をちらと見ただけで、そのままペンキのはげた横断歩道を渡った。
僕はタバコに火をつけ、その後を追った。


シャッターが降りたままの店もある。
看板もディスプレイも滅茶苦茶にされた店もある。
でも大半がなんら戦争前と変わりない。

焼きたてのパンの匂いを漂わせていたり、
じいさんが豆腐を売っていたり、
可愛い子がシュークリームを売っていたり、

その風景の中に
特殊なビニールスーツに包まれた自衛隊がいるのは、
それはたまに酔いつぶれたサラリーマンが道端にいるのと似たようなものだ。


僕らは別に何をするわけでもなく、まだ商店街を歩いていた。
2本目のタバコになかなか火がつかなくて、
僕は彼女の少し後ろを歩いていた。

ぼろぼろになった歩道が、話題を消してしまう。
何か、しゃべらなきゃ。

「あ、そういえば朝ニュース見た?池田が出てたよ。インタビュー受けてた。」
彼女は振り向く。
「池田って?あぁ、バンドやってた人?」
「そう。井の頭公園の跡地にさ、昨日またミサイル落ちたじゃん。
 あいつその場にいたみたい。」
「大丈夫だったの?」
「アフロに灰積もったらしいけどね。」
「はは。見たかったね、それ。」

彼女が笑ったとき、風が吹いた。



熱い。
体が浮いた。




たいしたことじゃない。
鼓膜が破れて音を感じなくなっただけだ。
アフロに灰が積もるより、くだらない。

風が吹いたとき、僕の両手は反射的に彼女の頭を抱えた。
そのまま吹っ飛ばされて、2人とも地面に転がった。
ざらざらした砂を食べたぐらいで、
ケガはたいしたことないようだ。

体を起こした彼女の口がばくばくと動いた。
どうやら何度も同じことを繰り返し言っているようだ。
僕はそのフレーズが切れる瞬間しかわからない。
でも、頷いた。
絶妙な間で頷いてみた。
彼女の不安で強張った顔は、ほぐれていった。


なんて言ってたんだろうな。
まぁたぶん、
「大丈夫?」とか「怪我ない?」とか、
そんなことだろう。




その後すぐに自衛隊や救急車や報道陣が集まり、
混乱する群衆の中で僕は彼女とはぐれた。
それをいいことに、もう2度と会わないことにした。

自分のために耳を犠牲に、
なんてうじうじと思われるぐらいなら、
恨まれるとか、忘れられる方がましだ。









それからもたくさんの人が死んで、
たくさんの物が壊れたけれど、
僕の予想は外れ、戦争は終わった。




最近の僕はピアノが上手い。
どんな曲を弾いても、思い通りの音が出る。
最後に聞いた柔らかい声がなんとなくいつまでも耳の奥に残っていて、
どんな曲を弾いても、思い通りの音楽になる。


会う必要はない。
僕はとても元気で、幸せだから。
というのは、嘘で

幸せのはずはない。
本当は会いたい。死ぬほど。



でも
元気なら、それでいい。
というのは、本当だ。
本当。



元気で。














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# by Dasein100-1 | 2005-04-12 03:43 | 021 Honeycom.ware

020




アールグレイ・ミルフィーユ



このテーブルの上には、
たった1つの「アールグレイ・ミルフィーユ」がある。


ここは、豪華なホテルの一室。
僕はただ、
丸テーブルを挟んで向かい合った男の子と、
中心にあるケーキを眺めている。

商社に勤めて20年。
今日も大事な商談を、完全なる成功で終えた。
自分で言うのもなんだが、僕は仕事に自信がある。
仕事が好きだ。
ワーカーホリックと言われることが誇りですらある。
気分は上々だが、確かに体は疲労している。
41歳か。
まだ若い、とは思えない。
鏡に映る自分の顔を見て思う。
もう「オヤジ」だ。

一仕事終え、同僚と銀座辺りでガンガン高い酒を飲み、
いい気分で酔っ払い調子のいいことを言っている。
そんないつもの自分の姿が目に浮かぶ。

でも今僕は、丸テーブルを挟んで12歳の息子と向かい合っている。
そしてそのテーブルの上には、
たった一つのケーキが置かれている。

今日、この場所に息子と居るのには理由がある。



2月29日はいつも、真に会う。
4年に1度の誕生日だからだ。

「真、お前もやっと3歳だな。」
「12歳だよ。」
「だってお前、2月29日は人生で3回目だろ?」
「くだらねー。メニュー選んでいい?」

くだらないとわかっていて言ったんだよ。


「最近学校のほうはどうだ。」
「聞いてどーすんだよ。」
「楽しいか?」
「さあ。」

可愛くないな。


仕事でなら強豪企業相手にプロの話術で勝ち続ける僕が、
たった12歳の子供相手に全く言葉が出てこない。


このクソ生意気な息子と沈黙の多い空間で、
たいして美味くも無いフランス料理のフルコースを食べ、
今日一日が終わろうとしている。
空しさを抱えたまま、
事前に注文してあったシェフ自慢のミルフィーユを、
誕生日の締めとして最後に登場させたところだった。

けれど真はシェフの目の前で、
自分の前に置かれたケーキの皿をテーブルの中央に押し返した。
そして眉を寄せてじっとそれを眺めていた。

「腹いっぱいか。」
「いや。」
「真はケーキ嫌いだったか。」
「嫌いじゃない。」
「どうした?」

アールグレイ・ミルフィーユなんていう、
女性が喜びそうな洒落たケーキは、
この年頃には抵抗感があるのだろうか。
もしくは誕生日にケーキなんてことからして、
恥ずかしくて迷惑だと思っているのかもしれない。

息子の気持ちがわからない。
こんな風に会うことすら、ただこの子にとっては迷惑だろう。
シェフも困惑した視線を僕に送る。



「割ってくれよ。」
「ん?」
「オレ割るの下手だから。」

真は僕に、自分のフォークとナイフを差し出した。

「よく大きさが違うって母さんに文句言われるんだ。」


シェフがもう1つ用意すると耳打ちするのを制止し、
僕はミルフィーユを割った。

「でもなぁ、これを半分にするのは難しいぞ。」
「オトナなんだからちゃんとやれよ。」

複雑に重なった層がザクザクと音をたて、
綺麗な白いテーブルにパイの破片が散った。


「オレより下手くそだな。そっちのでかくて綺麗なほうがいい。」
「体の大きさから考えて、普通父さんがでかいほうだろ。」
「じゃあこぼれたの食えよ。」

真は手を伸ばして取ったミルフィーユを見つめ、
その崩れかけた層の重なりをぶつぶつ言いながら数えていた。


「これゴミ入ってんぞ。」
「それは紅茶の葉だ。」
「ふーん、まぁ知ってたけど。これ、食べても平気?」
「ああ。いい匂いするだろ。」
「しねぇよ。」

可愛くないな。

「また会ってくれるか。」
「いいよ。ケーキ食わせてくれるなら。」







僕は甘いものが大の苦手だったのだが、
好きなものを聞かれたときは、
「ミルフィーユ」と答えるようになった。

「特に、アールグレイ・ミルフィーユが。」
40過ぎのオヤジが恥ずかしげも無く、
顔をほころばせて、そう答えるようになった。












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# by Dasein100-1 | 2005-03-21 23:34 | 020 アールグレイ・ミルフィーユ