040




コンクリートと水槽の隙間





沈み込むように濃くて、
リアルで、
体中にまとわりつくような夢を見ていた。
目が覚めたら水槽のアクリル盤の上に寝ていた。


誰にいつこんなことをされたのかわからないが、
脳に2本の電極が刺さっている。
でも気分は思うほど悪くない。


実験台のマウスに同情するのは筋違いだということを知った。
麻酔から醒めたら実験台の上にいて、
人間達に思うように捌かれてしまうのは、
案外こんな風に落ち着いた気分なのかもしれない。



森の中のごとく穏やかな気分だ。
でも、なぜここにいるのかはまるでわからない。

普通に食事をして、普通に起きて、寝る。

そういう当然だと思っていた暮らしをしていたのは、
数十年前のような気もするし、
昨日のような気もしている。
時間の数え方はもうわからなくなってしまった。


水槽の上での目覚めは、
ぬくぬくとした布団の中での、怠惰で緩慢なものではなく、
嘘がばれたときのような、
気まずいけれど罪悪感から一気に解放されたような目覚めだった。

ガラスの感触が背中に貼り付いていた。

身体が痛さを感じないほどに冷えていた。
その冷たさは、肌に密着したガラスの下に満たされた液体の温度だった。

首をまわすことすらできない。
冷却保存されているような感覚だ。


脳に電極が刺さっている、というのも、
本当のところただの推測だ。
頭の上のほうでにピリピリとした2点の刺激を感じていて、
自分の頭に2本の電極が刺さっている姿を想像した。

水槽のアクリル盤の上に寝ている、というのも、
本当のところただの推測だ。
耳のそばで微かに泡の音が聞こえていた。
背中がひんやりと冷たかった。
だから、水槽だと思った。



そうだな。
背中の下の水槽には、
2mほどのアロワナが、ブラックライトを浴びて優雅に泳いでいるのかもしれない。
背中の下の水槽には、
無数のピラニアが腹を空かせていて、アクリル板の上に載っているこの身体を狙っているのかもしれない。
背中の下の水槽には、
さらにその下に水槽があって、さらにその下にも水槽があって、さらに、限りなく、水槽はあって、
高層ビルほど積み重なった水槽の段上に僕は寝かされているのかもしれない。


妄想に飽きた。
耳の側で微かに泡の音が聞こえている。




眼球だけをぐるぐると動かして天井を観察した。
暗い灰色のコンクリート。
ところどころが欠けていて、鉄骨が剥きだしになっていた。
相当広い部屋なのだろう。この状態では四隅が見えない。
コンクリートとコンクリートの境界線は、雨漏りをしているかのように湿っていた。
無機質な部屋だ。

欠けて剥きだしになった部分から、
コンクリートの中に這う鉄骨の全体像を想像してみた。


そうだな。
案外、鉄骨には意思があって、
人にばれない程度にコンクリを液状化させ、
自由気ままに折れ曲がり、ランダムに天井の中を這っているのかもしれない。
そこには鉄骨の文化があり、経済があり、思想がある。
何十年という年月を経て建造物が壊れるのは、
朽ちるからではなく、
鉄骨の政治の問題であって、例えばテロが勃発して、
その社会のバランスを崩してビルを壊滅させるのかもしれない。



妄想に飽きた。
耳の側で微かに泡の音が聞こえている。





目を閉じた。





コンクリート【concrete 混凝土】
1.砂、砂利、水などをセメントで固めた人造石。
2.具体的、具象的なさまを指す。


辞書の一節が脳裏をよぎった。
言語が音のように、ふと浮かんで流れて消えた。




耳の側で微かに泡の音が聞こえている。
その泡の音に混ざって、
カチャリというドアの開く音がした。



目を開けて、眼球をぐるぐると動かしてみたが、
見えるのは広いコンクリートの天井だけで、
人の気配はない。
今この視界に入っているのは


1.砂、砂利、水などをセメントで固めた人造石。


そうじゃない。
目を閉じた。
泡の音が聞こえる。
コンクリートと水槽に挟まれたここはどこだろう。


2.具体的、具象的な様



答えが音のように、ふと浮かんで流れて消えた。


目をあけると、
天井では鉄骨が液状化したコンクリートの中を氾濫していた。


なるほど。
コンクリート【concrete 混凝土】ね。
今この視界に入っているのは、メタファーだ。
具体的、具象的な様をしめすもの。



つまりここは、
コンクリートと水槽に挟まれたこの場所は、
『現実と非現実の隙間』だ。



思い出した。

ある夏の日に、
アスファルトが液状化して、
景色が歪んで、
地面に沈んだことがある。

そんな風にして落ちてきたのが、ここだった。





身体は微塵も動かなくて、
振り返って『非現実』を見ることはできなかった。



泡の音に混ざって、
耳の側でカチャリというドアの閉じる音がした。
人の気配は無く、
ただ視界には液状化したコンクリートしかなくて、
なぜだか急に途方もなく寂しくなった。




全ての音は脳に刺さった電極から流れ、
知覚していることを悟った。






あぁ。そうか。

コンクリートの下、水槽の上。
その部屋の中にいるというのは大きな勘違いだ。




骨という骨が、液状化した体内を自由気ままに這っている。
体内を満たす水が、コポコポと音をたてている。
この意思はその中に在る。



そうだな。つまり。

コンクリートであり、
水槽であり、
無機質な部屋であるのは、
この身体だ。



孤独で、

なぜだか急に途方もなく寂しくなった。









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# by dasein100-1 | 2006-05-01 00:26 | 040 コンクリートと水槽の隙間

038





その空気に冷たい風







赤い熊にかじられた前足がまだ少し痛んだ。

危険な目によくあう。





私は、『シイナ』という動物だ。

よくイヌやらタヌキやらに見間違われる。
色は柔らかい茶色、
体は小さくて、利発的な顔立ちをしているそうだが、
動作は亀と競ってもいい勝負ができるぐらいのろい。

ゆっくりゆっくり歩く。
ぼんやりと空を見る。
すぐ寝る。

そんなんでよく生き残ってきたねと、カピバラに言われる。

もっともだ。
『シイナ』の仲間は皆そろって、
自分達がなぜ生き残ってこられたか不思議に思っている。

本当に不思議だ。




にぶくて、無防備で、無知で、
だから当然のごとく危険な目によくあう。




そういうわけで、
昨日も川に行った帰り道に赤い熊に遭遇したのだった。

遠く200メートル先のほうにぬふぬふと動く塊をみた。
それが熊だった。

大きくて赤い彼は一瞬その動きを止め、
直後こっちに向かって猛突進してきた。
ぐぉぉぁぁぁ という雄たけびをあげて、
私に襲い掛かって前足を噛んだ。

でも、それだけ。

歯が数ミリも食い込む前に、
なんだかやる気をなくしたように、
不思議にやるせない目で私の顔をみてから、
ぬっと立ち、もそもそと帰っていった。

私はぶるぶると震えがとまらなくて、
少しだけ血の出た前足をなめながら、
深呼吸を繰り返した。

必死で危険を回避した自分を誇りに思った。

けれど、よくよく自分のいる場所をみると、
私は必死で必死で逃げてたつもりで、
せいいっぱいの2歩しか進んでなかった。

戦うことも逃げることもしてない。
向こうのやる気が削げただけだ。

そういうことがよくおこる。
そういうことばかりだ。



「その君らのぬるい雰囲気が、敵の欲やら怒りやらをなくしてしまうんだよ。」

カピバラに言われたことがある。

「そうかもしれない。ありがとう。」
と返した。

でもどうやら褒められた訳ではなかったようで、

「まったく、うらやましいよ。」
と溜息まじりに笑われた。


3億5千万年ほど前の世界では、
どんな種がどんな種を食べるのかが決まっていて、
愛し合うのは同じ姿形のもので、
海か山か空か地中にしか住めず、
時間という流れの中でしか生きれなかったそうだ。


今はもう少し自由で、

時間の概念さえも曖昧。

生きるものの種類も気が遠くなるくらい増えた。



『シイナ』はヒトから派生した。
しかし姿形にその名残は皆無。

シイナは亜冷温動物で、体温の調節を不得意とする。

戦う術も、逃げる術もないけれど天敵もない、
特殊な種であるが、
体温の調節に失敗して死ぬ。

唯一それが、適応力のないヒトの名残だ。




もう3年も前の話だが、
『タクリノ』という動物に出会ったことがある。

4足の哺乳類だが、
シイナよりも倍ぐらい背丈があって、
首も脚も長くて、速かった。

どういうわけか、そのタクリノの一頭と親しくなった。
きっかけはどうしても思い出せない。

タクリノはよく笑った。
普段は食べないという胡桃を無理して食べていた。
そのくせ「まずい」と言ってバカにした。
胡桃はシイナの好物である。

たまに怒った。
動きが鈍いことに対しては一度も怒らなかった。
例えば、私がタクリノの好物である魚を捕りに行こうとすると、
「そういうのは迷惑だ」と、不機嫌になった。

どうせ捕れないことはわかっていて、
シイナの私がその意思だけを無駄に膨らますのが不愉快だったようだ。

今なら、なんとなくわかる。

きっと魚捕りは、タクリノの誇りだったのだ。



私は何もかもが自分より優れているようなタクリノと一緒にいる意味があって、

でもタクリノには私といる意味がなかったように思う。


わけがわからないまま、
でも、楽しくて、タクリノとよく一緒にいた。




冬が近くなり、私は死にかけた。
体温の調節に失敗したのだ。

大失敗だった。


季節の変わり目は、
シイナにとって一番危険な時期だ。

でも失敗したのはそのせいじゃない。

その日は少し肌寒いくらいで、
特別気温の変化が激しかったわけじゃない。



私はシイナの群を離れて、
あまりにタクリノのそばにいすぎたので、
自分で体温を調節するやり方を忘れてしまったのだ。

タクリノの体温は温かくて、安定していた。
だから、自分のやり方を忘れてしまった。



少し肌寒い日で、息が白くみえた。
そのことを伝えようと、
私はタクリノの脚を口でつついた。

ほんの一瞬の出来事だった。
いつものように並んで歩いていたタクリノは、
ふと立ち止まり、横目で私を見下ろすと、
駆け出していった。

何の前触れもなく。


そんなことが起きるなんて、
思っても見なかった。

必死で追いかけたつもりだったが、
息が切れて、どうしようもなかった。

追いつけるはずがない。

わけがわからない。



擦れた呼吸がなかなか落ち着かなくて、
肩を揺らせながら振り返ると、
もといた場所から、私は2歩も進んじゃいなかった。



「その君らのぬるい雰囲気が、敵の欲やら怒りやらをなくしてしまうんだよ。」
という言葉を思い出した。

敵だけじゃない。



前足にほんの少しの傷をつけただけで、
やるせない目で去った熊を思い出した。

助かったような気でいたけど、
いっそあのとき食われてしまえばよかったんだ。

どうしてシイナに生まれてきたんだろう。
ろくな動物じゃない。





気分が少しだけ落ち着き、進もうとしたけど、
動けなかった。

そうして私は失敗を犯したことに気がついた。

耳の先が、痛くなってきた。
舌が痺れてきた。
呼吸の間隔が短くなってきた。


寒いという感覚が、高くて気分の悪い音のように身体に響いて、
それが何か限界値みたいなものを越えて、
感覚すら無くなっていった。

無性に怖くなってきた。



頭の中は隅の方から黒く塗りつぶされていった。


薄く開いた目に、
遠くで森が揺れているのが見えた。
あそこに風がある。
それはこっちに向かって移動しているようだ。


ああ

この空気に冷たい風が吹いたら、終わりだ。

泣く暇もなく、バラバラにされて終わりだ。







それで、
そのとき風が吹いたのか、吹かなかったのか、覚えていない。



3年前の話だ。

近くをタクリノの群れが通り過ぎたりすると、
胸騒ぎがして、
あの空気を思い出す。


私はシイナの群れには戻らず、
ゆっくりゆっくり歩いてきて、3年が経ち、ここにいる。


目の前に、シイナでもタクリノでもない動物がいる。
『キタキタ』というらしい。
同じ亜冷温動物で、体温の調節を不得意とする。
だから一緒にいると、
ただでさえ苦手な体温調節が拍車をかけて混乱する。
それは大変だけれど、
なんだか嬉しいような楽しいような気分だ。


キタキタのことはそれ以外知らない。
そんなことはどうでもいい。
なんとなく、似ている。
キタキタも『ヒト』から派生した種なのかもしれない。



今日も3年前のように少し肌寒い日だった。

また一人になって、
あの空気がまた訪れて、冷たい風が吹いたとしたら、
今度こそ本当に終わりだ。

もう体温を保つ自信がない。



そしたらいっそ赤い熊に食われてしまおう。

生意気にみえる方法を覚えて、
食われてしまおう。



息が白くみえて、
キタキタにそのことを伝えようとした。

気温よりも冷たかった日のことを思い出して、
震えそうになったけれど、

横にいたキタキタは駆けだすことはなく、
何も言わず、
自分の息をその空気に投げ出して、
楽しそうに遊んでいた。



笑ってしまった。
まだ熊に食べられずにすみそうだ。
風が吹いても大丈夫だ。


遠くで森が揺れているのが見えた。
あそこに風がある。
それはこっちに向かって移動しているようだ。














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# by dasein100-1 | 2006-03-13 19:36 | 038 その空気に冷たい風

037




ミルク





「おい、お前なにしてんだよ。」

「え?」

「俺は牛乳に氷をいれるやつが一番嫌いだ!」


いきなり何だよ。

兄は私に向かって人差し指をびしっと向ける。


「お前だお前。このXXXXが。」

…なにぃ?
もういっかい言ってみろコラ。





天然ドレッドで顔が外人並に濃い兄はありえないぐらい理不尽だ。


私は風呂上りで、ごっつ機嫌がよかった。
鼻歌を歌いつつ。
冷たい牛乳をグラスで一気飲みしようとしていた。
もちろん小指を立てて。
なのに、
理不尽な兄の怒りにふれ、暴言を浴びせられたうえ背後から首をしめられた。
そして頭をがくがくと揺らされた。

「あががが」

口端からぶっと牛乳がはみでる。
こんな姿誰にも見せられない。

妹をこんな無様な姿にしておきながら、
突然冷たくぱっと腕を離し、
ぷすぷすと笑いながら兄はリビングの椅子に足を抱えて座り、
テーブルの上の煙草を手に取る。


このどSが。

はみでた牛乳を手でぬぐう。


そんな私を見て、兄はまたむくくっと笑う。





私の頭を揺らすことが、最近の兄の流行らしい。

思い切り揺らされた私の頭は、
もともと緩かったねじが内部でボロボロとはずれてしまったようで、
風呂上りに食べようと用意していたブロッコリーに
マヨネーズをかけるのにも手元が狂い、
にょろっと大量に搾り出したそれを、
机に思いっきりぶちまけてしまった。


あーあ。散々だ。





天然ドレッドで顔が外人並に濃い兄はありえないぐらい理不尽だ。
ガキだ。ほんっとガキだ。

マヨネーズをかけてもらえなかったブロッコリーと、
飲みそこねた牛乳のことを思いながら突っ立ってると兄に呼ばれた。

「アサミ、ちょっと来てみ。」

椅子に体育座りをして、煙草を口に加えたまま、
兄はちょいちょいっと手招きをする。

「なに。」

「なんか書けるもん持って来い。チラシの裏とかでいいから。説明してやる。」

よくわからないけれど、とりあえずペンと紙を探す。
チラシもないし、適当なメモ用紙も無い。
仕方ないから、『無印良品』の紙バックを持っていく。

無愛想にペンと紙バックを差し出すと、
「これに書けって?」と言い紙バックを裏返したり戻したりしていたが、
「まいっか」と、ボールペンでその余白になにやら落書きをしだした。



どうやら、コップみたいだ。

そこには牛乳が入っていて、

氷が浮いている、という絵のようだ。


「ここだよ、ここ。」

自分で描いた氷と牛乳の境目を、ぼんやりと塗りつぶす。

「ここ、まっずいだろ?な、オレ絶対無理。」


サイアクだろーとぶつぶつ言いながらペンを動かす。


あぁ、言ってることはわかるけれど。
牛乳を水で薄めたような部分は無駄にまずい。


「絶対無理。」

わかったわかった。



「そこは北極の縁だからなぁ。」

ん?

「北極の縁なんだよ。」


北極の縁?




兄はペンをぎゅっと握りなおす。

「世界が生温い牛乳にぜーんぶ沈んだとする。」

落書きの牛乳の部分に、ビルやら人ごみやらを緻密に書き込む。

「そしたら浮かんでるこの氷は北極だ。」

氷をやけにリアルに、写実的に描き直す。

「だから、このくそまずい水だかなんだかわからない部分は『北極の縁』だ。」

ぐにゃぐにゃと落書きの上から、
その部分にペンで線を重ねながら兄は幾何学的な模様を完成させる。



稀代の科学者が書いた設計図のように繊細な絵だ。



「知ってるか?南極の氷の下には大陸があるけど、北極の氷の下は海だ。
 まぁどうでもいいや。
 生温い牛乳からもがいて逃げようとする人間どもは、
 快適な温度をもとめて北極に泳ぎつく。でも氷は冷たすぎるから、
 みんなこの水だかなんだかわからない部分にみんな集まるんだ。
 全人類がここに集まるんだぞ?」

幾何学的な模様の隙間に、
サラリーマン、主婦、子供、女、老夫婦、インド人、グラビアアイドル、
に、見えるような小さな人間を付け足していく。


ほぼ隙間が埋まると、
兄は顎をぶるぶると揺らして、ペンを投げる。

「きもちわるっ。」


そして、前フリもなく私の額をびしっと叩く。

「いたっ」

兄はむくくっと笑う。煙草を吸う。



私はこの頭のおかしな兄が9.9割がた嫌いだけど、
どうしようもない天才なのも知っている。
自分と全く違う人種であることを知っている。



「お兄ちゃん。」

「なんだね、アサミ君。」

「もしさ、世界が牛乳に沈んで、私が溺れてたらどうする?」


一瞬、真剣な顔になった。

「どうするもなにも、何もしねーよ。」

こいつ本気だ。

「本当は助けてくれるんでしょ?」

「何もしないって。」

「…本当?」

間をおいて、トーンの落ち着いた声でじっくり言う。

「本当だよ。」

あぁ、そう。




ん?

カタカタ

カタカタ カタ ガタガタガタ


机のうえのコップが振動している。

あれ


「あ、地震だ。」

地震?

ガタガタ ガタガタガタンガタンガタンガタンガタン

大きい。止まらない。すごく大きい。

コップが倒れる。牛乳がテーブルにぶちまけられる。
氷が床に落ちる。

部屋中の物という物が揺れる。振れる。落ちる。

ガタガタ ガタンガタンガタンガタンガタンガタン


「どうしよう!お兄ちゃん!」


ガタガタ ガタンガタンガタンガタンガタンガタン

ガタンガタンガタン ガタン

ガタン ガタン 


カタカタ 

カタ


…止まった。

まだ心臓がどくどくいってる。
パニックになって、私はただ両手で頭を抱えていただけだった。

あぁ、怖かった。
もっと大きい地震で、場所が悪かったら死んでたかもなぁ。

愛というものは、こういう非日常の事態で発揮される。
と、よく聞くが。


ふと顔をあげると、
兄はもとの場所から1ミリも動いていなかった。
椅子に足を乗せて座り、
ペンでぐにゃぐにゃと落書きを続けていた。


「お兄ちゃん。」

「なんだね、アサミ君。」


私はゆっくりと立ち上がり、兄の落書きをのぞきこむ。
『北極の縁』に、
デフォルトされて泣き喚く私の絵が加えられていた。

本物よりもブサイクに書きやがって。

でも似てる。

そっくりです。



「おい、アサミ。世界が牛乳に沈んでるぞ。」


テーブルも、床も、牛乳びたしだった。


「溺れる前にちゃんとダスキンしとけよ。」

ぷすぷすと笑って、兄は部屋へ引き上げていった。





北極の縁に溺れて牛乳の底に沈んでしまえ。
たぶんその場所には私もいる。

その非日常な事態に便乗して、
天然ドレッドで気味が悪いほど異才で途方もなく頭のおかしなこの人間と、
血を分けているという事実をうやむやにして、
まるで気づかれていない愛というやつをぶちまけてやる。


私は正直だから仕方がない。


ルール違反なのは知ってるよ。よくないことだって知っている。
でも、どうしようもない。

知ってる。
くだらない。

「妹」なんて、いつだってやめてやる。

世界が牛乳に混ざってぐちゃぐちゃになって、
くだらない世間体やルールなどなくなればいい。

複雑でどうにも素直に存在できないこの感情も
ほどよくミルクで柔和されて
おいしくなるかもしれない。


そう。

「わりかしおいしい」って言わせてやる。



冷蔵庫を空けると、「俺」と書かれた食べ物が詰め込まれていた。

よし。
これは私が食べる。




あいつの胃は私の空間を空けておくべきなのだ。

どうしようもなく飢える対象になるべきなのだ。

おなかをすかせて待ってるのだよ、お兄ちゃん。













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# by dasein100-1 | 2006-03-08 02:52 | 037 ミルク

036




山手戦





A社・社内

パソコンが所狭しと並ぶオフィス。
キーボードのカチャカチャという音がせわしなく聞こえる。
岸川寛人はふと作業の手を止め、
首を伸ばしてパソコンの上から半分顔を覗かせる。
視線の先には部長のデスク。
部長は書類を手に、それを渋い表情で眺めている。

「岸川さん」

岸川の目の前に、ぬっと橋本の顔が出現する。
2人はパソコンを挟んで顔半分で向かいあう。

「岸川さん、どうしたんですか。なんか今日そわそわしてません?」

「部長が今手に持ってるの、俺の企画書のような気がするんだよね。
 こないだたっぷり説教受けたのに、また適当に書いたからなぁ俺。」

岸川、顔を出すのをやめ、椅子の背もたれに体を預けて脱力する。
隣の席の田中はキーボードを叩きながらちらりと岸川を見る。

「いいよなお前は。適当にやろうが何しようが、どうせゆくゆくは社長なわけだから。」

「継ぐ気ないって、オヤジの会社なんか。」

岸川の背後に人影。
肩を叩かれた岸川、思わず椅子をがたがたさせながら姿勢を正す。
振り向くと後輩の瀬野が、ずれるメガネを直しながら立っている。

「なんだお前か。」

「岸川さん、部長が呼んでますよ。」


眉をしかめて書類を眺めている部長のデスクの前、
岸川は襟を正し、咳払いをして立つ。

「部長」

「ああ、岸川君。どうだね調子は。」

「えっと、はい。すこぶる順調です。
 もしかしたら企画書のほうは多少甘い部分もあったかもしれませんが、
 こないだの件で成功してますし、明日のプレゼンはまかせてくだ」

「あぁ、うんうん。そうじゃなくてね、岸川君。体調のほうはどうだね。」

「えっ体調ですか?…すこぶる健康です、が。」

「そうか、よかった。君ね、明日のプレゼンでなくていから。
 今日もう帰っていいからね。」

岸川、青ざめる。

「え、そんな」

「はい、これ。」


岸川の手に、1枚のゼッケンと赤白帽が渡される。



「なんですか、これ。」

「明日の『山手戦』、岸川君が我が社の代表に選ばれたんだ。
 うちは白組。よろしくね。
 岸川君は騎手だから、ちゃんとスーツにゼッケン、頭に赤白帽を忘れないように。 
 馬は田中君と、橋本君と、瀬野君。ね、席も年も近いし、チームワーク抜群だな!
 じゃ、頑張ってくれたまえ。」

岸川は部長に背中をバンバンと叩かれる。

「は、はぁ。」

「さぁ、早く帰って寝て明日に備えなさい。」


岸川、ゼッケンと赤白帽を手に困惑した表情でデスクに戻る。
斜め前、瀬野が帰り支度をしているのが目に入る。
田中と橋本のデスクはすでに荷物がない。

「おい瀬野、田中と橋本は?」

「帰りましたよ。明日に備えて。」

岸川は周囲を見回す。
他の社員は皆真剣にパソコンに向かい合い、仕事をしている。

「おい瀬野、瀬野。『山手戦』ってなんだ。俺全然この状況がわからないんだけど」

瀬野は支度を終え、リュックを背負い、
小ばかにしたような目で岸川を見る。

「岸川さん、まさか『山手戦』のこと知らないんですか。」

「…」

瀬野、メガネに手をやり、答える。

「山手戦。要するに企業対抗騎馬戦です。
 都内の主要企業が赤組と白組に分けられて、各社代表1騎ずつ騎馬を組み、帽子を奪い合う。
 社会情勢を左右しかねない大事なイベントじゃないですか。
 まぁメディア規制は厳しいようなので、
 世間一般にどれだけ知られているかは疑問ですが。」

「…どこでやってたのそんなこと。」

「だから、山手線でやるんですよ。ホームと車両を使って。
 1925年、山手線が環状運転を開始してから毎年行われています。
 今年は第80回目ですね。岸川さん、これくらいリサーチしといてくださいよ。
 明日お願いしますよ。では新橋駅に8時で。」

岸川、呆然と立ち、瀬野の後ろ姿を見送る。


AM8:00 新橋駅

スーツに「岸川」と書かれたゼッケンを背に貼った男が改札に向かう。
頭には赤白帽(白)

「ご、ごめん。」

「騎手が遅刻かよ。早く乗れって。」

田中、橋本、瀬野。
岸川の到着と同時に騎馬を組み、腰をおとす。

「わりぃな」

岸川の体が騎馬に乗った瞬間、それは勢いよく走り出す。
自動改札、強行突破。
人をけ散らし、階段をかけあがる。
ホームにごったがえす乗客。皆いたって冷静。

列をつくる乗客の後方に並び、4人は騎馬を組んだまま電車を待つ。


アナウンスが入る
『今日は年に一度の山手戦です。日頃の成果を発揮し、せいいっぱい頑張りましょう。
 まもなく電車がまいります。白線の内側におさがりください。』

どこかでパンパンと乾いた花火の音。
電車が到着し、ドアが開く。


プシューッ


騎馬がいた。

混み合う社内、赤い帽子をかぶった男。
乗客から上半身分はみだして、天井に頭をくっつけている。
ゼッケンに「H」のロゴ。


「H堂だ。岸川、仕掛けろ。」

赤帽の男が振り向き、岸川と目が合う。
岸川が躊躇している隙に、男は手を伸ばして帽子を積極的に奪いにくる。

「まじで…」

満員電車の乗客の上でもみ合う2人。
乗客から応援や野次の声が飛び交いだす。

「おい瀬野、H堂の弱点のリサーチとかないのかよ」

瀬野、乗客に四方から挟まれ、苦悶の表情。
メガネがずれている。


アナウンス
『次は浜松町、浜松町です』


乗客A「おい、今彼女からメールがきたんだけど、D通の騎馬が女性専用車両にいるらしいぞ。」
乗客B「へー。D通は裏をかいて女を出してきたのか。」
乗客A「いや、明らかにカツラかぶったおっさんだって。女性相手にビジネス術について演説してるらしいぞ。」

乗客のぼそぼそした声に、H堂の騎馬が反応する。
その隙をついて岸川は相手の帽子に手を伸ばすがかわされる。
浜松町に着き、ドアが開く。
H堂の騎馬、乗客を押しのけ飛び出していく。

岸川たちも乗客たちに流されるようにして車外に出る。
ネクタイが曲がり、シャツがはみだし、じっとりと汗をかいている。

「H堂にあからさまに戦いを放棄されると悔しいな。」

「仕方ないですよ。H堂はD通の帽子を何十年も狙ってるんですから。」

「瀬野、メガネずれてる。」



ラッシュも過ぎ、車内も空いてきた。

対戦相手を探す岸川たち、車両から車両へと移動する。
岸川、ぐったりとしながら帽子をしっかりとかぶりなおす。

車両をつなぐドアを開けた瞬間、目の前に赤帽をかぶった騎馬が現れる。



「オヤジ!」



岸川恒夫を騎手にした、中年男4人の騎馬が車内の中央に立つ。
2体の騎馬、正面から向かい合う。


「やっとこの日がきたな、寛人。」

「はぁ?」

「俺はこの日が来るのを待ち望んでいたんだ。さぁ、俺の帽子を取れ!
 そして会社を継ぐと宣言しろ!」

「冗談じゃない」

岸川、騎馬をUターンさせ、もといた車両に引き返そうとする。

「寛人待て、待つんだヒロっ… ゴフォ」


液体の混じった感じの咳が聞こえる。
岸川が振り向くと、血を吐く恒夫の姿がある。


「!」

「寛人…俺と戦って帽子を取れ…」

「バカじゃねぇの、早く馬から降りろよ、次の駅で病院へ…」


岸川、騎馬のまま恒夫に近づき、顔をのぞきこむ。
その瞬間、恒夫の手が岸川の帽子をはぎとる。


「ああっ!」

「ばかめ。俺だってお前みたいなバカ息子に大事な会社を譲るきなんてないわ。
 出直して来いや。」

帽子をとられ、呆然とする岸川。

「あ、スーツにさっきの血、というかトマトジュースかかっちゃった。」

「さすが社長演技派ですねぇ。次行きましょう、次。」



社員と和気あいあいとしながら次の車両に移っていく恒夫。
岸川、田中、橋本、瀬野、その場に崩れ落ちる。









岸川、飛び起きる。




周囲を見回す。
ハンガーにかかっているスーツ。
もぎとって裏返してみるが、
ゼッケンはない。



「夢か。」


パジャマが汗でじっとりと体にはり付いている。

「…やべ、プレゼンに遅刻する。」








岸川は息を整えながら、会議室の席につく。
発表用のボードの前、H堂の社員がプレゼンの準備をしている。

「あいつどっかで見たことがあるような…」

プレゼンが開始され、咳払いをするH堂社員。
緊張しているのか、額に汗が浮かんでいる。
度々スーツの内ポケットからハンカチをだして顔にあてている。



ハンカチ?



いや、違う。
赤くて、もっとごにょっとした感じのものだ。

岸川は目を細めてよく見た。



「あ」


H堂の社員が汗をふくその手元には。

















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# by dasein100-1 | 2006-02-28 03:22 | 036 山手戦

035




後遺症




32才の会社員「A」は、1年前事故にあった。

優秀で、善良で、全てが完璧だったAは、
その事故の直後から後遺症に悩まされるようになった。

以下は7人の同僚の話だ。


同僚1
「Aは傲慢になりました。
 会話は常に自慢話から始まり、
 2言目には、『俺はお前らとは違う。』『馬鹿が多すぎる。』などと言い、
 人を小ばかにしたように汚く笑います。

 1年前の彼は、全く逆でした。
 優秀な人で、実力も業績も申し分ないのですが、
 そのことで驕ることは微塵もなく常に腰の低い人でした。

 現在のAは、散々傲慢に振舞ったあと、
 周囲が閉口して彼を冷たい目で見ていることに気付くと、
 瞬間表情が固く変わり、決まってこういうのです。

 『あぁ、後遺症が。』

 彼は、自分の傲慢さを『後遺症』だと思っているようです。
 しかしそれは本当かもしれません。」



同僚2
「Aは嫉妬深くなりました。
 いい成績をあげた人のことを、悪く言います。
 あからさまな嫌味を言っているのを良く聞きます。
 陰で、根も葉もない噂を流すこともあるそうです。

 1年前の彼は、全く逆でした。
 嫉妬するなんてもってのほか、
 嫉妬されても、理不尽な扱いをうけても、
 口先で反論するのではなく、結果で示すような人でした。
 ライバルとはお互いに成長したいと常に言っていました。

 しかし現在のAは、
 営業成績が伸びた人間に、面と向かってこう言いました。
 『お前の営業は脅しだ、頭を使えない奴のやりかただ。』
 『いい気になってる。』
 それはあまりにひどい言い様だったので、
 脇で聞いてた僕はむきになって彼に訂正するように詰め寄ったのですが、
 急にAは頭を抱えてこう言ったのです。

 『あぁ後遺症が。』

 彼は自分の嫉妬深さを『後遺症』だと思っているようです。
 しかしそれは本当かもしれません。」



同僚3
「Aは怒りっぽくなりました。
 後輩がミスすると怒鳴り散らします。 
 私は事務職なので、彼にコピーを頼まれることがあるのですが、
 『ずれてる』と言ってコピー用紙を全て投げ捨てられたことがあります。

 1年前の彼は、全く逆でした。
 後輩のミスをかばって、自らが水をかぶるような人でした。
 厳しく叱る場面もありましたが、それは気持ちの伝わる言葉でした。

 現在のAは、ただ感情を発散しているだけです。
 私のコピーのずれも、誰も気付かないほど微々たるものでした。
 悔しくてつい涙が出てきて、
 そうなると止まらなくなるのが私の性格で、しゃくり声も抑えきれず、 
 周囲の注目を集めだしてしまいました。
 するとAは表情を変え、
 首を大きく左右に振ってこう言いました。

 『あぁ、後遺症が。』

 彼は、自分の怒りっぽさを『後遺症』だと思っているようです。
 しかしそれは本当かもしれません。」



同僚4
「Aは怠惰になりました。
 無断欠勤をします。休憩を頻繁にとります。
 締め切りを守りません。

 1年前の彼は、全く逆でした。
 無遅刻無欠勤、度重なる残業にも文句ひとつ言わず、
 約束事は必ず守りました。

 現在のAは、平気で会議にも遅刻し、
 商談の時間も忘れるほどです。
 そうした失敗を犯しても、
 堂々とした、というよりもふてぶてしい態度で登場します。
 しかし緊迫した事態を察知すると、
 青ざめ、決まってこう呟くのです。

 『あぁ、後遺症が。』

 彼は、自分の怠惰を『後遺症』だと思っているようです。
 しかしそれは本当かもしれません。」


同僚5
「Aは強欲になりました。
 金に汚くなりました。他人の持ち物を欲しがるようになりました。
 会社での地位を異常に気にするようになりました。
 
 1年前の彼は、全く逆でした。
 堅実でしたが気前がよく、気持ちのいい男でした。
 無駄に値の張るようなブランド物は一切身につけず、
 しかしスマートな装いで、清潔感がありました。
 仕事は社内、社外からも認められていましたが、
 本人はそういう評価についてまるで興味がないようでした。

 現在のAは、付き合いに金を出すことは一切無く、
 身のまわりを金目のもので固めています。
 時計、スーツ、車、マンションなど、
 すべて新調し、それでもまだ足りないようです。
 上司に薄ら笑いで機嫌をとった後、
 ふとひきつった口元が崩れ、ぽろっとこうこぼすのを聞きます。

 『あぁ、後遺症が。』


 彼は、自分の強欲を『後遺症』だと思っているようです。
 しかしそれは本当かもしれません。」


同僚6
「Aは大食漢になりました。
 食事の回数、量は驚くほどです。
 彼は食事のとき動物のように食べ物を貪り、
 チキンの骨までしゃぶります。

 1年前の彼は、全く逆でした。
 どちらかといえば食が細く、
 ジャンクなものは極力口にしていないようでした。
 神経質ではないほどに食事のマナーにも気を使っていて、
 女の子達は誰もが彼と食事に行くことを楽しみにしているようでした。  

 現在のAは、量で勝負しているような店で思う存分食事をしてきた後で、
 デスクにカップ麺やスナック菓子を広げ、
 不快な音を立てながら仕事をしています。
 体質なのか、太ることはなくむしろ不健康に痩せ、
 がさがさの唇を微かに動かしてこう言うのです。

 『あぁ、後遺症が。』

 彼は、自分の暴食を『後遺症』だと思っているようです。
 しかしそれは本当かもしれません。」



同僚7
「Aは軽薄になりました。
 女性であれば誰にでも声をかけ、
 うまくいったらその場でホテルに連れ込んでるそうです。
 その上風俗にも足しげく通っています。

 1年前の彼は、全く逆でした。
 優秀で、善良で、容姿も整っていた彼は非常にもてましたが、
 長年付き合っていた恋人を大事にしていました。
 それでも彼に好意を寄せているような女性もいましたが、 
 誠実な態度と距離で接しているようでした。

 現在のAは、以前付き合っていた彼女と別れ、
 不特定多数の女性と関係を持っているようです。 
 廊下の端で、甘ったるい声で会話をしてるのをよく聞きます。
 頭が腐るような会話です。
 そして電話を切ったあと、
 天を仰ぐようにしてこう洩らしています。 

 『あぁ、後遺症が。』

 彼は、自分の情欲を『後遺症』だと思っているようです。
 しかしそれは本当かもしれません。」





そんなAに面会したいという人物が会社を訪れた。

その人物は東京にある私立大学の教授で、
社会学と心理学をコアにした「善悪」の研究をしていて、
どうやら酔狂なカトリック信者らしい。
牧師のような奇妙な格好をして、
受付のものにわざわざ「信仰はカトリックです」と言ったと聞く。

彼はどこからそんな情報を仕入れたのか、
事故により人格が変貌したAに興味を持ち、
直接話がしたいと押しかけてきたのだ。

そのときAは椅子にふんぞり返り、ぼんやりと宙をみていた。

その客がAのデスクにやってきたとき、
Aはまず、アポイトメントもなしにやってきた客を通した後輩を怒鳴り散らし、
差し出された名刺を見て、軽く鼻で笑い、
それをぺこぺこと曲げて腰のポケットに無造作にいれた。

客は会談用の奥の個室に通され、
Aと2人きりで向かい合った。

「で、何の御用ですか?」


「突然お邪魔して申し訳ありません。
 私、坂真下清彦と申します。
 カトリックの者でトマス・アクィナスを支持しております。
 いやいや、いやいやとんでもない。布教じゃないです。 
 私、大学の教師でありまして、専門は心理学と社会学であります。
 一口に心理学、社会学と申しましても、説明しますとけっこうややこしいことをやってまして、
 あ、いや、あぁすみません、すみません。
 こんな長ったらしい話は不要ですね。
 簡単にいいますと、私は「善」と「悪」の定義を追求しております。」


Aは顎に手を当て、薄笑いを浮かべ、坂真下と名乗った初老の大学教授を見る。


「で、僕に何の御用ですか?」

「あの、聞くところによるとAさんは1年前に事故にあわれたそうで。」

「そのようですね。」

「えっ、記憶にないのですか?」

「覚えてますよー。」

ふはははと、Aは笑う。

「そ、その事故からあなたは人格が変わってしまったようだとき、聞きました。」

緊張気味に、しかし興奮しながら坂真下という男はAに尋ねる。
ニヤニヤしながらAは顎をなぞる。

「そのようですね。」


坂真下は唾を飲み込み、まっすぐAの顔を見た。


「人間なんてものは曖昧で不確かなものです。
 例えば、薬を飲むだけで人格が変わる。
 人間中身が大事だなんていうけれども、中身なんてもともとないのだと思います。
 快楽、幸せなんてものは脳内の神経伝達物質でコントロールされている。
 優しさなんてのも、つまりは快楽物質の量ですよ。
 精神と神経伝達などの関連についての生物学的研究が進んでいるのは、
 躁鬱に代表されるような気分の高低や、
 攻撃性などにとどまっていますが、
 私はそれを人の『善』と『悪』の研究まで進めたいと思っている。」

坂真下は、表情をひきしめ饒舌に語った。
Aは心底楽しそうにニヤニヤと笑いながら、その話を聞いていた。


「私は、心理学と社会学の教師でありますが、聖徒でもあるのです。
 人の善悪のなんたるかを知りたい。
 そのためには、部分だけ突き詰めてもだめです。
 心理や社会などの統計学的側面、脳科学を筆頭とした生物科学的側面、
 そして宗教。
 まぁ、話が長くなりましたな。つまり、あなたにお願いをしたい。」

「くっくっく なんですか。」

「あなたは、スイッチが切り替わったように善から悪へと変貌した。
 そしていまでも、『あぁ後遺症が』という口癖に表れるように悔恨的な瞬間があるという。」

Aの表情からふと笑いが消えた。

「あなたには極端に、善と悪の切り替わりがある。
 つまりあなたを研究対象として、
 善と悪の境界線がなんたるかというデータをとりたい。
 心理検査、血液など身体的物質の採取、などの御協力をお願いしたい。」

「僕を調べれば、善と悪のなんたるかがわかるのですか。」

「必ずなんらかの結果は得られると思います。
 そしてあなた自身も救えると思います。」

「あなたは、『善』と『悪』をとことん知りたいのですね。」

「はい。それが私の生涯の研究ですから。」

「僕にも、知りたいことがあります。先生協力してくださいますか。」

「もちろん、私にできることであれば。」








しばらくすると、Aは個室からひとりでふらりと出てきた。
視線は宙を泳いで、薄ら笑いを浮かべていた。

「A、客はどうした?」

「彼は善と悪を知りたいらしい。善から悪へ変わった俺を調べれば、それがわかるらしい。」

「それで?」

「交換条件をだした。」

「何?」

「俺は事故で死にかけたんだ。境界線をさまよった。生きてるってなんだろうね。」

「A?」

「俺は生が何なのか知りたい。
 あいつの理論で言えば、生から死に変わった人間を調べれば、それがわかる。」

Aは、自分の手のひらをみた。

「結局なんもわかんなかったなぁ。」



ドアがAの背後でふわっと開き、床に死体が一つ。
坂真下教授は、首に青黒い指圧の跡をつけ十字を切るようにして手を組み、
白目を剥いていた。


数秒の沈黙のあと、
誰かの悲鳴をきっかけに、
社内が混乱にまみれた。


Aは顔をあげ、社内をみまわし、もう一度自分の手のひらを見て、
ふと我に返ったように悲しそうな目をして、
そのまま顔を覆ってこうつぶやいた。



「あぁ後遺症が」















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# by dasein100-1 | 2006-02-28 02:08 | 035 後遺症

034




アスファルト





「みんな沈んでしまえばいいのさ。」


高橋の口癖だ。
伊藤が乾いた笑いで同調する。
俺は特に何も言わない。

高橋が赤い自販機の前で立ち止まる。
伊藤はかまわず先を行く。
俺は歩くのか止まるのか中途半端な動きをして、
2人の間にいる。


ガラガラガラ ガコン

缶の落ちる音が聞こえる。



暑い。
30度をゆうに超えている。

体がだるい。

夏だから、なんだ?
窓を全開にして気に障る音楽を大音量で垂れ流した車が横を走り過ぎていく。
背中がばっくり開いた服の女が歩いている。肩紐と日焼けの跡がずれている。

俺は家に帰りクーラーの中で眠ることしか考えてない。


振り返ると高橋は350ml缶を垂直に立てて飲み干していた。
空いた缶を、先を歩く伊藤に向かって投げる。
中身の無い缶は空気抵抗で情けないほど勢いを無くして、
伊藤に届く前に道路に落ちる。


コンッ


無意味で、軽くて、中身のない音だ。


高橋は何も無かったような顔をして歩き出す。
伊藤は振り返りもしない。
俺は空き缶を拾う。


高橋、伊藤、俺は、
24時間営業のディスカウントショップでバイトをしている。

深夜組として入るメンバーはたいてい同じで、
正直、この2つの顔は見すぎて飽きた。

深夜、といえども仕事からあがるのは昼過ぎだ。
つまり、1日12時間以上、
人員不足のためほぼ毎日働いている。



「アイツら全部沈んでしまえばいいのさ。」

高橋の口癖だ。
駅前には、浴衣を着た男女がいる。
今夜はこの近くで花火でもあがるのだろうか。

「もっと他に言うことないのかよ。」

「あるわけ」

「ないよな。」

伊藤は爬虫類のように顎を伸ばして欠伸をする。
俺は空き缶用のポリバケツを見つけて、缶を捨てる。




「みんなアスファルトに沈んでしまえばいいのさ。」

高橋は空ろな目でそういった。


「子供一人殴り倒すだけの腕力もないくせに。」

伊藤はそう言って笑い、さっきの残りかすのようなな欠伸をした。
高橋は眉を寄せ、不可解な顔をした。


「殴り倒す?」

「高橋相当ストレスたまってんだな。
 本当にできるなら一人か二人アスファルトに沈めてこいよ。」



高橋はさらに眉を寄せ、首をかしげた。

「なんでそんな疲れることしなきゃなんねぇんだよ。」


駅のロータリーは広く、9割が黒いアスファルトでできている。
30度をゆうに超える熱が視界を揺らして、
地面と空気の境界線が曖昧になる。
陽炎か。




「アスファルトの下だよ。」

アスファルトがぐにゃりと揺れる。
黒くて濃い液体が愚鈍な動きで緩い波を立てる。
いつも見上げていた駅前の時計塔がいつの間にか同じ背丈にある。
並んで立っていた男女が傾き、ずぶずぶと、ゆっくりと、視界から消えていく。
高橋はふと上を見上げた。
俺もつられて上を見た。
6階建てのビルが5階建てになり、4階、3階、2

視線が地平線と平行になり、
今目の前の伊藤の体が腰、胸、肩、首、


「沈んでしまえばいい」





同感だな。

でもアスファルトの下は思った以上に暑い。

俺は家に帰りクーラーの中で眠ることしか考えてない。








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# by dasein100-1 | 2006-01-31 23:47 | 034 アスファルト

033



d:



朝7時のカフェには店員以外誰もいなかった。
僕は一番奥の席に座り、読みかけの本を広げた。

客が1人入ってきた。
白髪交じりの、やけに日本人離れした顔立ちのサラリーマンだ。

彼は僕の隣の席に座る。
他に空いてる席はいくらでもあるのに、何食わぬ顔で。

ふと、知り合いだったかと記憶を探ってみたが、
そんな初老の紳士など、まるで覚えがない。

僕は無関心を装いながら、彼の横顔を観察する。
下手に刺激して、なれなれしく話しかけられたりでもしたらやっかいだ。

しかし、何も起こらなかった。
彼はコーヒーを片手に、小さく畳んだ新聞に一通り目を通すと、店を出て行った。

なぜわざわざ僕の隣に。
気になって、読みかけの本を1ページも進ませることができなかった。


今日はおかしな日だ。


それから僕は電車に乗った。
ラッシュと逆方向に向かう電車はとても空いていた。

優先席の向かい、一番端の席に座る。
そして、本を広げる。

次の駅で乗客が1人。
黒いコートに、ブランドものの小さな紙袋を持った女性だった。

彼女は僕の隣に座る。
他に空いてる席はいくらでもあるのに、素知らぬ顔で。

ふと、知り合いだったかと記憶を探ってみたが、
高い香水の匂いのする美人など、まるで覚えがなかった。

体が触れないぎりぎりのところで、彼女は座って目を閉じている。
眠ったふりをして、僕の肩に寄りかかってくるのかもしれない。

しかし、何も起こらなかった。
次の駅に着いた瞬間彼女は目を開き、すっと立ち上がり電車から降りた。

なぜわざわざ僕の隣に。
彼女が横にいるあいだ、読みかけの本を1ページも進ませることのできなかった。

今日は本当におかしな日だ。
本を閉じて、どういうことかしばらく考えてみた。

例えば僕は昨日のうちのどこかで死んでいて、
そのことに自分で気づいてないのかもしれない。

そういうわけで誰も僕の存在に気づかないのであれば、
こんなおかしな日の帳尻もあう。

手のひらを眺めてみた。透けては無い。
顔に触れてみた。感触もある。

いつもと変わらない。
でも、それは、こういう感覚は、夢の中でも在るものだ。

突然、発車音がする。
僕はびくっと肩を縮めて我に返り、慌てて電車を降りた。

いつのまにか、目的の場所に着いていたらしい。ある人に会うためにここまできた。
ここには数えるほどしかきたことが無い。

中途半端に店の立ち並ぶ駅前。
昼時のファミレスは、意外に空いている。


「元気か。」

「はい。」


僕は聞かれたことに単語で答え、
あとは運ばれてきたカレーを黙々と食べていた。


「最近どうだ。」

「特に何も、ないです。」

居心地が悪くて、読みかけの本の続きが気になった。
そして1ページも読み進められなかった原因の、今日の出来事を回想した。

「…おかしな日だな。」

「どうした?」

独り言を拾われてしまった。
僕は一瞬視線を皿から外しかけて、やめた。カレーを混ぜた。

「今朝、店で見知らぬ人が僕のすぐ隣に座ったんです。空いてたのに。」

「それが、どうした。」

「他にいくらでも席があるのに、わざわざ他人の近くになんて不自然じゃないですか。」

「…」

返事が来なかったことが意外で、僕は思わず顔をあげた。
その人は色黒で、伸ばしっぱなしの髪と髭がだらしなく、ヤニで歯が黄色い。
枯れたような肌をしているが、窪んだ目に妙な力がある。
その目にぶつかって、慌ててまた下を向いた。

「そういう距離だったからだろう。」

正面から視線を感じつつ、僕はまた皿をいじる。

「距離?」

「そいつらとオマエはそういう距離だったんだ。それだけのことだ。」

「全く知らない人ですよ。」

「そらそうだ。世の中はほとんどが知らない人でできている。」

「え?」

「距離と、認識と、気持ちの大きさは無関係だ。」

「ん?」

的を得ているような、得ていないような話をする。
そういうところが少し苦手だ。

「ところでオマエはなんで、そんな遠いところから話をしてるんだ。」

僕とその人は向かい合って座っている。
けれど別々のテーブルに1人ずつ座り、間にさらに1つテーブルをまたいでいる。

2人の間は5m以上ある。見た目にも居心地の悪い距離で、
雑音に紛れて聴こえるか聴こえないかぐらいの会話をしている。

「ところでオマエはいつから、俺に敬語を使うようになったんだ。」

「・・・」

沈黙のあと、その人は笑った。その顔が、やけに老けてみえた。
また会話が途切れた。

そのうち、僕とその人の間にあったテーブルに小さな子を連れた家族が楽しそうに笑いながら席に着いた。
少し疲れた父の顔は、メニューを広げて笑い合う人達の影で見えなくなった。





理由はないけど、遠回りして帰ることにして、バスに乗った。
空いていた。

僕は幼い頃、「降ります」のボタンを押すのが好きで、
目的のバス停がアナウンスされるのをドキドキしながら待っていたことを思い出した。

ブレーキがかかり、バスが停車し、乗客が1人。
制服を着て眼鏡をかけた、高校生ぐらいの女の子だ。

彼女は僕の横に立つ。
他に空いてる席はいくらでもあるのに、真面目な顔で。

顔をのぞきこんでみたが、全く面識がない。


こんな近くにいるのに全く知らないことが不自然なのか、
全く知らないのにこんな近くにいるのが不自然なのか、
それは不自然じゃないのか、
よくわからなくなってきた。

「どうして、ここに?」

話しかけると、彼女は天井の広告の辺りに泳がしていた視線を僕に移した。
少し悲しそうな顔をした。

次の瞬間、彼女の姿は僕の横から消えて、
驚いて車内を見回すと、彼女はいつの間にかバスの後部座席の端に座り窓の外を見ていた。

どうしてここに?と、責めたわけじゃない。ただ問いかけただけだ。

似たような状況を思い出した。
たった一言で離れていった人を思い出した。

もう一度振り向いて彼女の顔を見た。
本当に知らない人だっただろうか。


いろんな距離のことを考えた。


遠くにいて、会えない人のことを考えた。
場所の問題じゃない。近くにいくにはどうしたらいいのだろう。



今日は本当におかしな日で、気が遠くなる。

父は別れ際に、幸せそうな家族の向こう側から
「お前の辛くない位置に俺をおいてくれればいい。」
と言った。


それは自由で、簡単なようで、気が遠くなるくらい難しい。



帰りの電車も空いていたが、
ジャージ上下で金のチェーンをじゃらじゃらつけた男が僕のすぐ横に座った。
読みかけの本は結局、1ページも進まなかった。












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# by dasein100-1 | 2006-01-15 02:55 | 033 d:

032



破壊





「1年ぶり。」

「そうだな。」

「連絡取れなくなってから、もうそんなに経つのか。」

「悪かったよ。」

1年ぶりに会った友人は、蛍光灯の切れかかった薄暗い部屋で、
腕時計を分解していた。
僕は冷たい床に膝を抱えて座り、その姿を眺めていた。


「修理?」

「逆。壊してる。」

「何のためにそんなこと。」


友人はドライバーをくるくると回しながら、ちらっと僕の方を見て、
それからまた下を向き、軽く笑った。

もともと細身だった彼だが、今は俗に言う「骨と皮」だけになっている。
1年ぶりに訪れた部屋は、几帳面に整頓された以前の状態とは一変して、
散らかっていた。
食べ物の袋や、チラシなどの類は一切見当たらない。
散在するのは、『金属』だ。


「テレビは?」

「ない。」

「あっただろ。」

「たぶん組み立てれば、ある。」

「ステレオは?プレステは?」


答えるのがめんどくさい、といった顔で友人は髪をいじった。
僕は右手のそばに落ちていた部品を拾い上げた。
綺麗にバラされたコントローラーの欠片だ。



「病んでるな。」

「まあね。」


ドライバーを回す手を止め、友人は机から腕時計を持ち上げた。
ぐしゃっとその形が崩れ、指からバラバラと部品が落っこちた。
彼はほっとしたようにため息をつき、目を閉じた。


「こうやっていろいろ壊してると落ち着くんだ。あ、コーヒー飲む?」


僕の返事を待たずに、友人は立ち上がってキッチンに向かった。
裸足で、ボルトやバラバラの配線を平気で踏んでいく。
その後ろ姿は、骨の構造がわかるほど肉体の質感を失っている。


コーヒーの香りがする。

白いマグカップを腕時計の部品が散乱するテーブルに置き、
それを僕に勧め、
友人はもう一度キッチンに戻る。
そして今度はコーヒーメーカーを抱えて、
元の場所にゆっくりと腰をおろす。


「それ、どうすんの。」

「もう使わない。」


ドライバーを手にし、底から剥がしはじめる。


「使わないって、」

「もう誰もここには来ないし、俺はコーヒーを飲まない。」


僕はマグカップを口につけたまま、
淡々とコーヒーメーカーをバラす友人を凝視する。

「誰も来ないって?」

「お前が最後だよ。他はもう全部壊した。」


手からマグカップが滑り落ちる。
コーヒーが床にこぼれる。
散らばる部品が、茶色い液体で汚される。


血の気が引く。



友人は驚いた顔で僕を見る。
そして自分の言葉を反芻するようにしばらく黙り、
笑い出す。
窪んだ目に、笑い皺が寄る。
懐かしい表情だ。


「どんな想像したんだ。そこまで病んじゃいない。」

気づくと、コーヒーメーカーはすでに形を失っていた。

「他とは完全に連絡を絶った。もう知り合いは一人もいない。」


友人は手元に煙草の箱を寄せる。
勧められるままに1本手にしたが、
お互い煙草をくわえたまま、向かい合って数秒沈黙する。

「火、持ってないか。ライターも全部壊したんだ。」

僕は慌てて、火を点ける。

ふと部屋を見回すと、完成された形のものは何一つとしてなかった。
僕はふと、1年前、人づてに聞いた話を思い出した。

「家族はどうした?」

「家族?両親はもともといないよ。」

「それは知ってる。1年前くらいに、家族になる人ができたって聞いたけど。」

「ああ、そうそう。結婚するはずだったんだ。毎日、楽しくて仕方がなかったよ。家族ってすごいよな。普通はこんな風に過ごしてきたんだろうなって思ったよ。この先自分も親になって、新しい家族が増えて、家の中が騒がしくなって、物でごちゃごちゃしてきて、そんなドラマみたいな幸せがあるとは思ってなかった。本当に嘘みたいだったけど、そういう人と暮らしてたんだ。」


急に饒舌になり、1年前の彼の表情になり、僕は動揺した。
しかし数秒と続かなかった。


「そうそう。死んだんだ。」



友人はまだ長さのある煙草を灰皿に押し付け、
指先でそれをバラし始めた。
紙を丁寧に剥がし、ぼろぼろの葉が灰皿に散らばった。


「…テレビが壊れるのってきついよな。」

「テレビ?」

「でもさ、壊れると見なくなるだろ。見なくなるとそれに慣れる。」

友人は箱に残っていた煙草を1本ずつバラし始めた。

「居た人が居なくなるのはきつい。もとから居ないほうがましだ。
 大事なものは壊れる前に、壊しておいたほうが楽だ。」











そういうわけで、壊された。
僕が最後だったらしいが、彼は病んでいたから、それは嘘かもしれない。

想像どおり、僕はコーヒーメーカーのように壊された。










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# by dasein100-1 | 2006-01-08 15:52 | 032 破壊

031





故障




会議を終え、ばらばらとオフィスに戻ってくる人々の波に、
北川明人は半分寝ているような顔で紛れている。
結局、無駄な会議だったな。
大げさに伸びをし、首を左右に曲げ、コキコキと骨を鳴らす。

「あー。だるい。」

書類の散らかったデスクに戻ると、
隣の席の神山がキーボードを叩きながら横目で北川を見た。

「会議おつかれ。」
「あぁ。」

神山の顔はいつにも増して悲愴だ。
目の下には隅ができ、多忙な業務でげっそりと頬がこけ、彫りの深い顔立ちに一層陰影を与えている。コイツはいまに血でも吐くんじゃないか。本気で物騒な想像をしてしまう。
「神山、大丈夫か?」以前そんな風に声をかけて、
「俺、そんな貧相に見える?」と逆に不機嫌にさせてしまったことがある。
神山は心配されることが嫌いらしい。
北川は今また口まで出かかった労りの言葉を飲み込んだ。
そんな北川に気付く様子もなく、神山はパソコンの画面を睨んで作業を続けている。

「そうだ北川、さっきから何回か携帯鳴ってたぞ。」

デスクの上で携帯電話の画面が光る。
青く点滅する画面には『不在着信』の文字。

「ああ、本当だ。」

知らない番号からだった。



私的な電話をするときは、トイレの個室にこもる。
別に廊下の端でも屋上でも構わないのだけれど、なぜかここが落ち着く。
特に意味はないのだけれど、電話をするときは眼鏡を外すのも癖になっている。
ついでとして、煙草も吸う。
喫煙室は落ち着かない。
薄暗く冷えた空気の中、腕を組みドアの内側に寄りかかり、北川は携帯を耳にあてる。
『メッセージは1件です』という留守電の声。
ピーッという信号のあとに、女性の声が流れる。

『もしもし、角谷新聞社の武田と申します。このたびは安部定行写真賞に御応募いただきありがとうございました。北川様に、安部定行写真賞の大賞受賞のお知らせがあり、御電
話いたしました。』


阿部定行写真賞?


携帯が手から滑りおちる。
ガコッという音のあとに、ポチャンという音。


阿部定行写真賞。
嘘だろ。


もう一度メッセージを聞きなおそうとして、
手のひらに載っていたものの感触がないことに気付いた。
携帯…
水の底に見える黒い機体。
2、3秒意識が飛び、突如冷や汗が流れた。
しかしいったい何に動揺してるのかもよくわからなくなっていた。




阿部定行写真賞は、歴代にも多数の有名な写真家を排出しているような権威ある賞だ。
尊敬するアーティスト達の経歴に刻まれている賞。
そんな大層なものを受賞してしまった。
当然のように慌しく取材を申し込まれ、たくさんの人たちに興味を持たれた。
嬉しさの前に、どうしようという思いが先立ったまま、
自分に降りかかってくる物事をこなしていくのにせいいっぱいだった。

実感が沸いてきたのは、
2週間も経ってようやく休みらしい休みを過ごせたときだった。



狭い部屋に、生活感溢れるゴミが散らばっている。
北川はそれらを手あたり次第に掴み、片手に持ったビニールに豪快に放り込んだ。
散在した撮影用の機材やフィルムを丁寧に脇に寄せ、
なんとか足場になるスペースを作ってみる。

「おめでとう!本当っにおめでとう!」

飯田はドアを開けるなり北川の腕をとってぶんぶんと振り回した。

「あぁ、うん。」

その勢いに圧倒され、北川は半笑いを浮かべてされるがまま体を揺らされる。

「嬉しくないの?」

気の済むまで北川を振り回した飯田は、そのテンションの低さに不服なようで、
北川の腕を気まぐれに離した。
急に解放された北川は、酔ったようにふらりと傾き、ずれ落ちそうになる眼鏡を慌ててただした。

「いや、嬉しいよ。あれぐらい嬉しい。」

北川が眼鏡を押さえつつ部屋の一角を指差す。
その先には阿部定行写真賞を発表する写真雑誌の同じ号が、何冊も積まれている。

「うわー、北川バカだね。私も5冊買っちゃったけどさ。」

飯田は再び北川の腕を持って嬉しそうに再び振りまわす。
そのとき飯田の後頭部でゴンと鈍い音、神山が缶ビールの入ったコンビニの袋を掲げ
て、飯田の背後から顔をだした。

「早く中に入れよ、寒いだろ。」

相変わらず顔色の悪い神山の顔は、寒さで一層尖って見えた。

「あ、悪い。入って。」

神山と飯田は、微かに見える畳の部分につま先を立てて北川についていく。

「これってさ、全部写真撮るときに使うもんでしょ?」
「そうそう。お前ら踏んだらころすぞ。」
「北川って本当に写真バカだったんだな。知ってたけど、想像以上だよ。」
「まあね。あ、狭いけどそこ座って。」

3人は丈の低いテーブルを囲んで座る。

「よし、乾杯しようぜー。」

飯田が小さく拍手をし、正座をする。
ビニール袋からビールを出し、手渡す神山。

「あ、ちょっと待った。」

神山は配ったビールを回収し、それらを数回上下に振ってから再び返す。

「まじで。」
「北川、おめでとう!」

3人の歓声とともにビールの泡が飛ぶ。
飯田と神山は北川に襲いかかり、ビールをかける。
北川の眼鏡が泡で白く曇る。


幸せだ。
幸せだけど。まだ気持ちに引っかかって消えないものがある。




賞を受けた写真は、
どこにでもあるような街で、どこにでもいるような人を撮ったものだった。
休日によく行く街で、休日になるといつも会う人を撮ったものだった。
彼女がその街で暇をつぶして歩く姿を、断りなしに撮った。
撮った写真を見せると、なかなか素敵だと言って喜んだ。
そんな普通の写真だ。

基本的に作品として人物を被写体にするのは、趣味じゃなかった。
だからこの写真は本当に投稿するつもりはなかった。
遊びにしては思いがけず新鮮な感じがして、
期限ギリギリまで思うようなものが撮れず悩み苦しんでいた賞に
半ば自暴自棄になり投稿してみたものだった。
「してみた。」その程度の思いが、
長年目標にしてきたものを達成してしまった。
どんなに自信があった作品でも届かなかったものなのに。
これまで積み重ねてきた写真はなんだったのだろうか。
何度も落ち込んだり立ち直ったりして、模索してきた日々はなんだったのだろう。
それを思うと、少し苦しい気分になった。

今回の写真には、今までの写真に足りなかった何かがあった。

そういうことだろう。
でもそれは、何だろう。
自分で掴みきれていないものが評価を受けたことに、正直困惑していた。

もちろん幸せだ。死ぬほど嬉しい。
しかし、それを感じるのと同時に絶望もよぎる。
100%と0%が同時にやってくる、不思議な感覚だった。




この街にくると、落ち着く。
眼鏡を外し、北川は手にした1眼レフのファインダーを覗き込む。
レンズにぼんやりと像が写る。
ピントを合わせると、その中心に1人の女性が写る。
ファインダー越しに近づいてくるその人が北川の前で立ち止まる。
北川はカメラを降ろし、眼鏡をかける。

「どうも、このたびは。」
「どうも。お世話になりました。」
「本当によかったね。おめでとう。」

写真の中でノンスリーブだった彼女は、
冬になった今ではコートにマフラーを巻いている。
おめでとうを繰り返され、
北川は泣きそうなくらいの笑顔で、ただ何度も頷く。


「『前衛的でハイセンスな構図、それでいて計算を感じさせない、エモーショナルな作品で
ある。』よくわかんないけど、すごく褒められてるんだね。」
「まあね。」

北川と絵梨はカフェに入り、テーブルの真ん中に写真雑誌を開いた。
『阿部定行写真賞 北川明人』の文字に、A4サイズに特集された記事。

「『エモーショナル』って批評されたのは初めてなんだ。」
「感情がこもってるってこと?」
「うん、まぁーそうなのかな。」
「つまり、モデルが良かったってことね。」
「それはどうかな。」
「ほら、ここに『モデルが実に素晴らしい』って書いてあるよ。」
「書いてねーよ。」

北川は笑いながら雑誌を引き寄せる。
絵梨も笑う。
注文したコーヒーが運ばれ、雑誌を閉じる。

モデルがよかったんだと思うよ。本当に。
でもさ、だからこの先どういう写真をとればいいのかわかんなくなってきた。
言おうと思ったけどやめた。
そんなことを言われても、言葉を探して絵梨が困るだけだと思ったから。

それから他愛もない話をしたけど、何を話したんだったかな。
もっといろんな話をしておくんだった。





『脳神経科学物理視覚研究所』という札が掲げられた施設。
中に並ぶのは薄暗く、コンクリート壁で囲まれた無機質な部屋。
そのひとつに、白衣を着た東和友と北川が向き合っている。

「それで?」
「悔しいんです。」

東は写真雑誌と週刊誌を数冊手に持ち、パラパラと目を通している。

「君の写真、いい写真じゃないですか。」

東は、阿部定行賞を受賞したときの雑誌を手に取り、掲載された写真をまじまじと見た

「僕はずっと写真を撮ってきました。主に建造物や風景に拘ってきたんです。これまでも
何度か入賞したことはあったけれど、でも中途半端なものばかりで。どうしても趣味の域
を越えられなかった。」

東は雑誌を閉じ、真っ直ぐ北川を見た。

「人物を入れた写真は生涯初めてだったんです。いつもの感覚で、でも考えすぎずに、自分の好きな街と、大切な人のあるがままを撮ったんです。」
「どっかのインタビューでも君はそんなことを言っていたね。」
「はい。その僕の発言とあの作品が非常に幼稚で、限りなくアマチュアだと」
「どっかの雑誌に書いてあったね、強烈なバッシングだね。君はそれが悔しいと。」
「いいえ。」

北川はパイプ椅子の上で前傾姿勢をとり、焦ったように両手を揉みしだいた。

「そのバッシングの通りなんです。僕自身も、そう思うんです。幼稚だ。あの写真が僕のベストだと評価されるのなら、もう僕にこの続きはない。」
「そこで、完全なる脱却のために手術を考えたわけだ。」
「そうです。お願いします。」

東は立ち上がり、北川に歩みよりその眼鏡を外す。
片手で目の皮膚を広げ、北川の眼球を覗き込む。

「人の目の仕組みは、カメラの仕組みと非常に良く似ている。僕の手術は、想像されるほど複雑ではないんだ。」


北川は手術台に横になっている。
両目をのぞいた全ての部分に緑色のシーツをかけられている。
周囲には白衣の人間が数人と、重厚な装置。

「君が手に入れるものは、目の動きと連動した脳内内蔵型カメラ。つまり、瞬きとともにおちるシャッター。画像の記録をするための取り出し可能な短期記憶メモリー。そして君が失うのは、涙という身体機能と、長期記憶のシステムだ。」

東は手術台のライトを点ける。北川は目を細める。

「これまでの記憶は」
「無くならないよ。手術後からのことを、忘れがちになるだけだ。」

北川は目を閉じる。断片的な映像が浮かぶ。いろんな画が。
街とか人が









「いやー今回もありがとうございます。報道撮らせたら、北川さんがダントツですね。あ、これこないだ言ってた事件の資料です。」

北川は無言でそれを受け取る。

「シャッターチャンスを逃さないコツとかあるんですか。そういえば北川さんって眼力があるというか、なんか人と違う光がありますよね。目に。」
「そうですか。」

爽やかに固まった笑顔の記者に淡白な返事をし、北川はその場を去る。





日の光に眩しそうに目を細める。
徐々に見えてくる鮮やかな空。
ゆっくり瞬きをする。
それと同時に脳内でカシャという音。








北川は頭部を大げさな機械にチューブやラインで繋げられ、ソファーに横たっている。
東が画面上に写る何百枚という画像を見ながら、キーボードを操作している。

「先生。僕、最近幻覚が見えるんです。どっか故障してないですか。」
「幻覚?そんなものが見える可能性はゼロだ。よく調べてみよう。」
「神山や、飯田や、絵梨の写真が最近のメモリーにないですか。画が鮮やかだから、過去の記憶じゃないと思うんです。でもそんなもの撮った覚えがない。」

東はキーボードを操作する手をとめ、北川のほうを見る。そして再び画面を凝視し、
何百枚という画像を連続で処理していく。画面がストップする。
神山や飯田の会社から帰宅する姿、街中での絵梨の後ろ姿などの画像が数枚現れる。
東は北川を横目で見ながら、その画像を消去する。

「北川君は、手術をして何年経つのかな。」
「確か3年です。」
「その3年間の記憶はあるかい。」
「いえ、まるで。3年間ただシャッターを押し続けた写真が残ってるだけです。」
「彼女や友達との関係はどうなった?」
「確か、手術をしてから時を経たずに破綻しました。」
「僕もそう聞いた気がするよ。きっと過去の記憶が回路を通って短期記憶のメモリーに混同してるのだろう。よく調べておこう。さぁ、終わったよ。今日1日分の君の写真はすっかりこの中だ。」

東は目の前のパソコンを軽く叩く。

「あともうひとつ、気がかりなことが。」
「なんだい。」
「最近、シャッターが押しづらいんです。何かが詰まっているような感覚があって。」
「なんだろうね。次きたとき精密検査をしてみよう。」







北川は、3年前に絵梨を撮った街中をふらふらと歩く。
ただ、規則的にまばたきをする。
その度に頭の中でカシャカシャという音がして、シャッターが降りる。
カシャ カシャ カ
おかしいな。
北川は立ち止まる。降りきらない目蓋がひくひくと動く。
どうしたんだろう。
そのうまく動かない目の前に、突如絵梨の姿が現れる。
彼女は北川に気付かずに、雑踏の中を通り過ぎる。
足が自然と前に出る。
1歩、2歩、駆け出して追いかける。
その絵梨の隣に、知らない男の姿がある。
2人はお互いに笑顔をみせ、親しげに話している。
北川の目から、通常の量でない液体が流れる。
路の端に寄り、おろおろしながら顔を隠す北川。

液体が流れる。
重く、ゆっくりと、ゆっくりと目蓋が降り、
ガシャンという不穏な音がして、北川の目が閉じる。


おかしいな。
何も見えない。
















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# by Dasein100-1 | 2005-12-09 09:36 | 031 故障

030




0℃ (砂下)



天井から、パラパラという音がする。
今朝は砂が降っているらしい。
この場所ではたまに砂が降る。
僕はベッドに寝転んだままぼんやりと天井を見つめ、
しばらくその音を聞いていたが、再び目を閉じた。
昨晩、慣れないことをしたからか体がとても疲れていた。
境界線で消えたあの紙はどこへ行ったのだろう。
16℃と書いた紙。

砂の音がする。
たぶんあと30分もすれば、この部屋ごと砂に埋もれてしまうだろう。
その後どうなるかは、試したことがないからわからない。
いつもは、埋もれる前に外へ出ることにしている。
だから今日もそうする。
そして砂の降る中を歩き続ける。
足が沈みそうになるけど、ただひたすら歩く。
ここの砂は白くて軽くてとても細かいから、
睫毛の上にも積もるし、服の中にもたくさん入り込んでくるけど、
それほど不愉快な気分じゃない。
でもこういう日は決まって、とても冷える。
僕はジャケットのポケットから温度計を取り出した。

0℃

壊れてやがる。
いくらなんでも、ここが氷点なわけはない。

ジャケットの襟をたて、僕は背を縮めて歩いた。
寒いな。空は薄い灰色。
こんな空から、砂以外のものが降る景色を見たことがある。
ずいぶん前の話だけれど。
本当に、ずいぶん。
どれくらい前だったかな。
ふと後ろを振り返ると、
地表から50cm出ていたあの部屋は、完全に埋もれて見えなくなっていた。
今日はいつもより、砂の降るスピードが速いらしい。
立ち止まると、足下がずぶずぶと地中に吸い込まれていく。

なんだか、疲れたな。


砂の勢いが増して、目の前がほとんど見えなくなってきた。

ここがどこなのか、ずっと考えていた。

砂浜、化石、風車、正方形の部屋。
果てしなく続く横のライン。
空と海の境界線。
青、白。
降る砂、巻きあがる砂、沈む砂。

思うに、ここは、意識の中だと思う。
生きていた頃、とても大切だった人の「意識」の中。


実のことを言うと、
僕はもう、ずいぶん前に死んだ。

身体が死んだ。体温が消えた。
その自覚ははっきりとある。


昔誰かに聞いたことがある。

「人は誰でもいつかは死ぬ。でもね、例えば君がたった今死んだとしても、
 それは死んだことにはならない。
 身体はもちろん、死んだら拡散して、無くなる。
 でも君を知っている人が君のことを完全に忘れるまで、
 君はその人の意識の中で存在し続ける。」

「そんなの、子供騙しだ。」

「どうして。」

「死んだらどうせ同じだ。僕の意識はそこにないじゃないか。」

「いや、あるよ。」

「嘘つくなよ。」

「本当だって。死ねばわかるよ。」

その話をしたのは、説教臭くて、ロマンチストで、
そのくせ言葉遣いが物騒なおっさんだった。
髪がぼさぼさで、貧乏なくせに葉巻きが好きな大人だった。
彼の言うことは本当だった。

僕は死んでからたどり着いたこの場所を歩き続けて、
わかったことがひとつだけある。


砂の下には時間がある。液体に浸された時間が。


たぶん、たくさんの動物がそこにいる。
本当に数えきれないほどの。
でもそこへいくのは、正直嫌だった。
忘れられたくない。
あいつの意識の底へ、沈んでしまうのは嫌だ。
砂の下で化石になって、
たまに砂が巻きあがるときに地表に現れて、
でもまた空から砂が降ってきて、
すぐに沈んでしまう。

嫌だよ。

今日はいつもより、砂の降るスピードが速いらしい。
立ち止まると、足下がずぶずぶと地中に吸い込まれていく。

歩けばいいんだ。
でも。なんだか、疲れたな。








「どうしたの。また、例の頭痛かな?」

「先生、私なんだか最近異常に眠いんです。」

「君は昔からよく眠たそうな顔をしていたけどね。」

「朝に弱いのはいつものことなんですけど、
 最近は昼も、夜も、ずっと眠くて、起きてる感覚がないんです。」

「それで、寝ちゃうの?」

「たぶん。寝てるか起きてるのかの境界線も曖昧で。
 どれが現実で、どれが夢なのかわからなくなってきて、怖いんです。」

「薬使ってる?」

「え?」

「睡眠薬とか飲んでる?」

「いいえ、飲んでません。」

「ふむ。そうか。」


私は、以前よく通った病院の診察室の中にいた。
先生は少しだけ白髪が増えていたけど、
昔から笑うと顔がしわくちゃになる人だったから、
年をとってもあまり変わってないようにみえた。

「最近起こったこと、なんでもいいから話してごらん。」

「紙が届きました。」

「紙。」

「何にもないところから、現れたんです。16℃って書かれた紙が。」

「16℃。」

「その紙にはパラパラしたものがついていて、最初砂糖かと思ったんですけど、
 触ってみたら砂でした。」

「砂。」

「それで、その日のお昼にある人に会ったんです。
 名前もわからないのに、知ってるんです。本当に、お互い知ってるんです。
 でもどこか記憶がぼんやりしていて。
 全部思い出しそうになった瞬間、消えちゃったんです。」

「消えた。」

「はい。その人、温度計持ってたんです。その日は10℃だったんです。」

「10℃」

「それで、雪が降ってきて。
 あぁ私何言ってるんだろう。なんだか頭おかしいですね。
 たぶん全部夢だったんだと思います。すごく眠かったから。」

「いや、夢かどうかはわからないけれど。
 僕も知ってるよ、君が会ったというその人のこと。」

「え?」

「ずいぶん前の話になるけど、ここに来てくれたことがあるんだ。
 君のこと心配してね。
 付き合って半年ぐらいの頃じゃないかな。
 君はたまに不安定になるから、そういうときにどうすればいいだろうって。
 僕はそのとき安心したんだよ。いい青年だったからさ。
 君は僕にとって、娘みたいなものだから。
 幸せになってほしいと心底思っているのだよ。
 だからね、もう彼のことは忘れなさい。」

「先生、言ってることが全然分かりません。」

ゆったりとした角度のソファーに横たわり話をしていた私は、
急に全身が地中に沈むような眠気に襲われた。
その私の頬に冷たい手が触れた。
目を開けると、先生が真剣な顔で私をのぞきこみ、
眠らせないぞというように、軽く頬を叩いた。

「彼は亡くなった。とてもよくわかってるはずだ。
 君はその手で彼の体温が下がっていくのを確認しただろう。」

「体温?」

「その青年が息を引き取ったとき、君は手を握っていて、
 それを看取ったと人づてに聞いた。
 さっきの君の脈絡のない話、何度も出てきたのは温度だった。
 君はそれを忘れられないんだ。」


なんだか、眠いな。

冷たい手が、また私の頬を叩いた。

「曖昧にするな。理解した上で、忘れるんだ。」

そんなこと、できるわけないよ。
途方もなく、眠い。






砂が降っている。
僕は疲れて、歩くのをやめてしまった。
もう膝のところまで、砂浜に沈んでいる。
ジャケットに砂が積もる。
あぁ、どうしよう。
いや、このまま沈んでしまっても構わないんだ。
むしろ、ここにいつまでもいることで、苦しむ人がいるなら。
でも、正直言うと、ここにいたい。


砂の中にいる。
これから先は砂の下で、液体に浸された時間がある。
もうここまでくれば、
あとはその柔らかい液体に身を委ねて、化石になるのを待てばいい。

ずいぶん前の話だけど。
たぶん、生きていたことに意味なんかなくて。
温度があって、それでよかったんだと思う。
それだけで。








朝がきて、いつものようにアラームが鳴る。
目が覚めた。
トーストを焼いた。
コーヒーをいれた。
砂糖をこぼした。

私は、理解をした上で、忘れた。

コーヒーを飲みながら、ふと考えた。
週末海へ行こう。
なんとなく。
この季節じゃ、死ぬほど寒い気がするけど。


なんだか急に泣けてきたけど、
たぶん意味なんかない。
たいして胸は苦しくない。

意味なんて、どこにもない。
温度があった。
ただ、それだけ。












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# by dasein100-1 | 2005-11-04 04:43 | 030 0℃(砂下)