カテゴリ:048 羽( 1 )

048








飛ぶ鳥は好きだったが、それ以外の鳥は嫌いだった。
特に鳩は嫌いだった。

あの重量を感じる丸い胴体に吐き気がした。

昆虫は好きだった。
正確に言うと透明な羽を持った昆虫が好きだった。

でも、羽をもがれた虫は死ぬほど嫌いで、
虫の死骸が転がっていた道を3ヶ月は遠回りした。


昔から異常なほど『羽』が好きで、
それだけが好きで、
羽が無く、
ごろごろと、ぼてぼてと、だらしなく歩く人間が大嫌いだった。

羽が欲しかった。

爽やかな希望ではなく、強くて偏った欲望だった。



二十歳になる頃まで、その欲望はどうしようもなく頭の中を支配した。
広い視野、バランス、適応力。
皆無だった。
内側にあるコントロールの効かない感情だけを信頼していた。

極限まで痩せ、
部屋の照明を全くつけず、わざと目を悪くした。
テレビもオーディオも壊して音を排除し、
水を好み、笑い声を嫌い、
性欲を消した。

飛ぶためだ。

自分は特別な存在で、何か特別な感覚と能力を、
得られると信じて疑わなかった。

それで、鳥でもなく虫でもなくもちろん人間でもない身体が完成したら、
次に物理的な「羽」を得て、そのうち、必ず飛べる。
と、思っていた。

羽 羽 羽

 羽 羽 羽

  羽 羽 羽

朝に目が覚めて、夜になりストンと意識が消えるまで、
そのことばかり考えていた。

ボロボロになるまで強く思い続けたことに関しては、
さして恋愛と変わらない。
しかし「羽」に対するそれは甘くて柔らかな恋愛感情なんかではなく、

そんな心地よい感情ではなく、

強くて偏った渇望だった。




そう。「羽」に病んでいた。


笑えない話だ。
ということに気づけるぐらいにまで「普通の人」に戻ることができたのは、
幸せなのか不幸せなのか。

今はサラリーで生活をし、適度な数の友人がいて、週末に食事をする彼女がいる。

病みから抜け出たことにきっかけなどない。
時間が経って、そうなった。

過去の偏った自分を思い出すたびに、
強く目をつぶり、両手で耳を塞ぎたくなる。

それは嫌悪感や気恥ずかしさではなく、恐怖に近い。

思い出すだけで、
普通の自分を失いそうになる恐怖だ。

しかし同時に、
普通じゃなかった自分を完全に忘れてしまうことへの恐怖にも襲われる。

相反する恐怖に挟まれてバラバラになりそうで、
強く目をつぶり、両手で耳を塞ぐ。

そんなことを繰り返し、
自分を保つために一番都合のいい方法は、
「忘れた」ということを常に演じながら、
瞬間だけ過去の記憶を味わうことだと知った。

本当に一瞬だけ。
それ以上だと、精神も身体も完全に壊れてしまう。


『人には過去の記憶による自虐的な行為が必要だ。』
と、本屋の店頭に並んでいたベストセラー本に書いてあった。

失恋の記憶であったり、家庭の不和であったり、
コンプレックスであったり、
そういう記憶の中の痛みを何度も繰り返し味わうこと、
それは辛いものを欲するのと似て、
マゾヒスティックに、ある種の快感を得ているのだと。



なるほどね。



非常に的を得た考え方だ。
普通はそうなんだろう。
痛みや恐怖なんて、快感のうちで、
自分が楽しんでいることにさえ気づかないほど
たいしたことのないものなんだろう。


うらやましい。
そういう類の傷は、気持ちがいいんだろうな。




「直樹。」

不意に名前を呼ばれて、右手の指から煙草を落とした。

「どうしたの?」

綺麗に整備されたテラスの床に、落ちた煙草の赤い火が散らばる。

「あ、いや。なんでもない。」


呼吸を整える。
少し考えすぎていた。あやうく自分で空けた穴に落ちるところだった。


「で、どうする?」

「…どうするって?」

「旅行の話。聞いてなかったの?」

不自然に傾いて頭蓋の奥で留まっていた思考が
徐々に平衡感覚をとりもどし、
状況を把握しだした。

今日は土曜だ。
真由と昼食をとり、その後テラスのあるカフェで話をしているところだった。
えっと、何の話をしていたんだ。

「あぁ、うん。そうだね。」

「そうだね、ってなに。聞いてたの?」

「ごめん。なんだっけ。」

「12月に行く旅行の話。」

「あぁ、そうそう。そうだね。」

真由は、もういいや、といった風にコーヒーを飲んだ。
でもさして機嫌は損ねてないらしい。

「楽しみ。海外旅行なんて、2年ぶり。」

落ちた煙草を拾い、そうか、と相槌をうつ。

「前はね、大学の友達と4人でタイに行ったの。
 女の子だけの旅もすごく楽しかったけど、でも夢だったんだ。
 彼と海外行くの。」

本当に嬉しそうにしながら両手でカップを持っている。
「彼」という言葉が、自分を指している言葉とは違うように響いて、
知らない女性の会話を隣のテーブルで聞いているような気分になった。

自分の言葉になんの反応も返ってこないことを不思議に思ったのか、
真由はもう一度繰り返した。

「夢だったんだよ。」

真由に正面から真っ直ぐ見られて、
我にかえって考える。そうか、相当楽しみにしてるんだな。

「うん。俺も夢だったよ。こういうの。」

「また適当なこと言って。」

拗ねた表情をして見せて、でもまた機嫌を直す。

「そういえば『夢』で思い出したけど、
 私ね、スチュワーデスになりたかったんだ。ちっちゃいとき。」

「ふーん。」

「ありきたりだけど、空を飛ぶのってやっぱり憧れるでしょ。」


心臓が止まる。冷や汗がでる。
『羽』に対する感情と過去の記憶が巻き返される。
口が渇く。

「…それって、苦しいやつ?」

「苦しい?」

「飛ぶの…飛びたいのって、苦しいんじゃないの。」

動揺して、自分が何を口走っているのかわからなくなる。


真由は、飲もうとしていたカップを口から遠ざけて、
よくわからないといった顔をしたあと、
言葉の意図を読み取ろうと考える。

「 そんなに真剣な夢じゃなかったから苦しいとか、そういうのは全然。
 別に努力もしなかったし。
 スチュワーデスのあとは看護婦で、そのあとはインテリアデザイナー。
 で、結局OL。普通でしょ?」

そう言って笑って、カップを口にした。
可愛い仕草だった。
緊張がすっと身体から抜けていく。

真由はまた話し出そうとして、「それでね、」と言いかけてやめた。
慌しくバックの中を探り、携帯を手にする。

「あ、香織だ。ちょっと待ってて。」

席を立ち、テーブルを離れ、携帯を耳に当てる。

もしもし、香織?うん。そう直樹と一緒。あ、大丈夫大丈夫。
こないだメールありがとう。すごい助かった、
で、ごめん、昨日の着信でしょ?ちょっと頼みたいことがあって…

遠くなる真由の声を聞きながら、
ゆっくりと呼吸をして、テラスからの開けた景色を眺めた。

都会にしては、綺麗な空だった。

普通でよかったんだ。真由にはそれを求めていた。
どうかしてる。
あの病的なわけのわからない感情は、
少しずつ、完全に忘れていこう。

サラリーで生活をして、休みは友人と遊んで、
真由と食事をして、旅行をして、結婚をしよう。

結婚式か。鳩がいるんだろうな。
重くて丸い形をした鳩が。




それは嫌だ。





空を見ていたつもりだったのに、目に映るそれが青くない。
晴れてたのに、おかしいな。
視界の全てが急に灰色になってぐらりと揺れた。

苦しい。

強く目をつぶり、両手で耳を塞ぐ。


普通の自分を失いそうになる恐怖と、
普通じゃなかった自分を完全に忘れてしまうことへの恐怖だ。

こんな場所で。







「どうしたの?」

たたんだ携帯を手にした真由が、驚いた顔で立っている。

その大きく開いた綺麗な目と視線がぶつかった瞬間、

全身のねじが緩んだ感覚になり骨を支えていた力が抜ける。




ザッと音をたて、男の身体は一瞬にして全て「羽」に変わった。

ストンと、指に挟んであった煙草が先にテラスの床に落ちた。

赤く小さい火が散らばる。

フワリと宙に浮いた細かくて白いたくさんの羽は、

風が吹いて、

人間の輪郭を崩した。

ゆっくりと左右に揺れながら落ちて、

雪のように椅子と床に積もった。




女はただ驚いて、最後の羽が落ちるまでそれを見ていた。

それから、『旅行に行けなくなった』とさめざめと泣いていたが、

しばらくして羽を1枚だけ拾い、大事そうに手帳に挟んで

赤い目をして、でもどこかすっきりとした顔で店をでていった。


客が帰ったのを確認した店員が、

カップをさげるためにテラスにでると、

パチパチと控えな音と、焦げた匂いがした。

テーブルの下で、

落ちた煙草の赤い火が、羽に燃え移り、灰に変えていた。

店員が何事かと屈みこむより早く、

強くて冷たい風が吹いて、

灰の混ざった羽が舞って、跡形もなく空に消えた。



店員は首をかしげてそれを見上げ、

掃除をしなくてすんでよかったな、とぼんやり思った。

今日は空が澄んでいて、高くて、綺麗だ。

目を細めて呼吸をした。

そうしているうちに11月の肌寒い風が再び吹いて、

店員は首をすくめて、

思い出したようにあたたかい店内に戻っていった。
[PR]
by dasein100-1 | 2006-10-06 00:33 | 048 羽