カテゴリ:045 犬( 1 )

045









会社帰りに寄った閉館15分前の図書館で、
きょろきょろと首をまわしながら、
うろうろと館内を歩く犬に出会った。

「やぁ。」

選びに選んだ5冊の本を腕に抱えていた僕は、
その重量で体が左に30度傾いていたが、
なんとかバランスをとりながら、
なにげなさを装って空いた右手をあげ声をかけた。


犬はきょろきょろまわしていた首を止め、
ふと視線をずらして僕の顔を見た。
確かに犬は僕の声に振り向いたようだが、
少しの感情の動きもなくただ顔だけこっちを向いていた。

つまり数秒間完全に僕は無視された。

その沈黙に耐えられなくなって、
「じゃまぁそんな感じで。」と言ってその場を去ろうとした瞬間、
犬は僕に歩み寄り、右手を差し出してきた。


「やぁどうも。奇遇だね。」


意外な展開に動揺し、反射的に右手を差し出した僕は、
バランスを崩して左腕に抱えていた本をばたばたと床に落としてしまった。

犬はただ、
僕の中途半端に宙に浮いていた手をしっかり握り、
何度か揺らして満足そうに微笑んだ。

「図書館は楽しいね。」

「えっと、あ、うん。そうだね。」

楽しい?まぁ、楽しいけれど。

落とした本が気になって、
なんとなく焦りながら握手を終え、
派手に床に散らばったそれらを拾い上げようと屈んだ。

当然犬も手伝ってくれるものかと思っていたが、
彼は這いつくばって本を拾う僕の横をすっと通り過ぎ、
またきょろきょろと探索を始めた。


僕はその姿を床から見上げた。

いったい何を探しているんだ?


犬は、犬の中では大きい方で180cm近くある。
ひょろりとしていて、首が長い。

犬は、犬の中ではめずらしく二足歩行で、
大股で歩く。

タバコも吸うし、
原チャに乗る。

そんな奴が図書館で何を探しているんだ?






「探しものじゃない。見学だよ。」


床にぺたりと座ったままぼんやりと上を見ている僕に、
犬はぬっと顔を近づける。

拾い上げた本をまた左脇に抱えたら、
シャツがそっち側にずれて情けない格好になっていた。


「見学?」

「そう、見学。」


犬はぐっと上体を起こし、遠い目をした。
鼻がひくひく動いている。


「図書館に興味があるの?」

「ああ、まぁ。匂うからね。」

「匂う?」

犬は目を閉じ、息を吸い込む。
長いまつげがゆれる。

「匂うよ。本が。本からいろんな匂いがする。」

「へー。なかなか文学的なこと言うんだね。」


犬は薄く目を開け、
僕を軽蔑するようにするっと視線をこっちによこした。


アホか。


声には出さなかったが、口がそう動いた。


「匂いは匂いだ。」




シャツをだらしなくずらしたまま、
怠惰に立ち上がった僕にむかって、
突然犬はひどく顔を近づける。




「コンクリートの匂い。   夕食の匂い。
 
     紅茶の匂い。
 
 死の匂い。          海の匂い。」


僕の腕にある5つの本に黒い鼻をぴったりつけて、
つぶやく。


にっと横にさけた大きな口が数cmの距離でそこにある。
喰われるかと思った。


「なるほど、勉強になるわけだ。」

どうやら合点がいったらしく、
本から顔を離し、小さく何度かうなずく。

犬が何を言っているかはよくわからなかったが、
同意するように僕もうなずいていてみる。


「ところで、閉館だよ。」


蛍の光が流れだした。

犬は耳をぴくぴく動かしたが、興味なさそうにあくびをした。



「借りなくていいの?本。」


「俺は鼻が利くから本は要らない。」






やさしい図書館司書のお姉さんの声を後にし、
僕らはそろって外へ出た。

犬は無言で一本タバコを吸い、
駐車禁止と黄色い字でかかれた場所に置いてあった、
ポンコツで赤い原チャに乗ると、
右手をあげ、アクセルをふかし、
あっというまにいなくなった。


僕が借りたこの五冊の本は、
全部『経済学』の本だったのだけれど、

どうやら

コンクリートと  夕食と
    紅茶と
死と        
          海の匂い。

がするらしい。




なるほど。

勉強になるわけだ。
[PR]
by dasein100-1 | 2006-07-10 01:32 | 045 犬