カテゴリ:038 その空気に冷たい風( 1 )

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その空気に冷たい風







赤い熊にかじられた前足がまだ少し痛んだ。

危険な目によくあう。





私は、『シイナ』という動物だ。

よくイヌやらタヌキやらに見間違われる。
色は柔らかい茶色、
体は小さくて、利発的な顔立ちをしているそうだが、
動作は亀と競ってもいい勝負ができるぐらいのろい。

ゆっくりゆっくり歩く。
ぼんやりと空を見る。
すぐ寝る。

そんなんでよく生き残ってきたねと、カピバラに言われる。

もっともだ。
『シイナ』の仲間は皆そろって、
自分達がなぜ生き残ってこられたか不思議に思っている。

本当に不思議だ。




にぶくて、無防備で、無知で、
だから当然のごとく危険な目によくあう。




そういうわけで、
昨日も川に行った帰り道に赤い熊に遭遇したのだった。

遠く200メートル先のほうにぬふぬふと動く塊をみた。
それが熊だった。

大きくて赤い彼は一瞬その動きを止め、
直後こっちに向かって猛突進してきた。
ぐぉぉぁぁぁ という雄たけびをあげて、
私に襲い掛かって前足を噛んだ。

でも、それだけ。

歯が数ミリも食い込む前に、
なんだかやる気をなくしたように、
不思議にやるせない目で私の顔をみてから、
ぬっと立ち、もそもそと帰っていった。

私はぶるぶると震えがとまらなくて、
少しだけ血の出た前足をなめながら、
深呼吸を繰り返した。

必死で危険を回避した自分を誇りに思った。

けれど、よくよく自分のいる場所をみると、
私は必死で必死で逃げてたつもりで、
せいいっぱいの2歩しか進んでなかった。

戦うことも逃げることもしてない。
向こうのやる気が削げただけだ。

そういうことがよくおこる。
そういうことばかりだ。



「その君らのぬるい雰囲気が、敵の欲やら怒りやらをなくしてしまうんだよ。」

カピバラに言われたことがある。

「そうかもしれない。ありがとう。」
と返した。

でもどうやら褒められた訳ではなかったようで、

「まったく、うらやましいよ。」
と溜息まじりに笑われた。


3億5千万年ほど前の世界では、
どんな種がどんな種を食べるのかが決まっていて、
愛し合うのは同じ姿形のもので、
海か山か空か地中にしか住めず、
時間という流れの中でしか生きれなかったそうだ。


今はもう少し自由で、

時間の概念さえも曖昧。

生きるものの種類も気が遠くなるくらい増えた。



『シイナ』はヒトから派生した。
しかし姿形にその名残は皆無。

シイナは亜冷温動物で、体温の調節を不得意とする。

戦う術も、逃げる術もないけれど天敵もない、
特殊な種であるが、
体温の調節に失敗して死ぬ。

唯一それが、適応力のないヒトの名残だ。




もう3年も前の話だが、
『タクリノ』という動物に出会ったことがある。

4足の哺乳類だが、
シイナよりも倍ぐらい背丈があって、
首も脚も長くて、速かった。

どういうわけか、そのタクリノの一頭と親しくなった。
きっかけはどうしても思い出せない。

タクリノはよく笑った。
普段は食べないという胡桃を無理して食べていた。
そのくせ「まずい」と言ってバカにした。
胡桃はシイナの好物である。

たまに怒った。
動きが鈍いことに対しては一度も怒らなかった。
例えば、私がタクリノの好物である魚を捕りに行こうとすると、
「そういうのは迷惑だ」と、不機嫌になった。

どうせ捕れないことはわかっていて、
シイナの私がその意思だけを無駄に膨らますのが不愉快だったようだ。

今なら、なんとなくわかる。

きっと魚捕りは、タクリノの誇りだったのだ。



私は何もかもが自分より優れているようなタクリノと一緒にいる意味があって、

でもタクリノには私といる意味がなかったように思う。


わけがわからないまま、
でも、楽しくて、タクリノとよく一緒にいた。




冬が近くなり、私は死にかけた。
体温の調節に失敗したのだ。

大失敗だった。


季節の変わり目は、
シイナにとって一番危険な時期だ。

でも失敗したのはそのせいじゃない。

その日は少し肌寒いくらいで、
特別気温の変化が激しかったわけじゃない。



私はシイナの群を離れて、
あまりにタクリノのそばにいすぎたので、
自分で体温を調節するやり方を忘れてしまったのだ。

タクリノの体温は温かくて、安定していた。
だから、自分のやり方を忘れてしまった。



少し肌寒い日で、息が白くみえた。
そのことを伝えようと、
私はタクリノの脚を口でつついた。

ほんの一瞬の出来事だった。
いつものように並んで歩いていたタクリノは、
ふと立ち止まり、横目で私を見下ろすと、
駆け出していった。

何の前触れもなく。


そんなことが起きるなんて、
思っても見なかった。

必死で追いかけたつもりだったが、
息が切れて、どうしようもなかった。

追いつけるはずがない。

わけがわからない。



擦れた呼吸がなかなか落ち着かなくて、
肩を揺らせながら振り返ると、
もといた場所から、私は2歩も進んじゃいなかった。



「その君らのぬるい雰囲気が、敵の欲やら怒りやらをなくしてしまうんだよ。」
という言葉を思い出した。

敵だけじゃない。



前足にほんの少しの傷をつけただけで、
やるせない目で去った熊を思い出した。

助かったような気でいたけど、
いっそあのとき食われてしまえばよかったんだ。

どうしてシイナに生まれてきたんだろう。
ろくな動物じゃない。





気分が少しだけ落ち着き、進もうとしたけど、
動けなかった。

そうして私は失敗を犯したことに気がついた。

耳の先が、痛くなってきた。
舌が痺れてきた。
呼吸の間隔が短くなってきた。


寒いという感覚が、高くて気分の悪い音のように身体に響いて、
それが何か限界値みたいなものを越えて、
感覚すら無くなっていった。

無性に怖くなってきた。



頭の中は隅の方から黒く塗りつぶされていった。


薄く開いた目に、
遠くで森が揺れているのが見えた。
あそこに風がある。
それはこっちに向かって移動しているようだ。


ああ

この空気に冷たい風が吹いたら、終わりだ。

泣く暇もなく、バラバラにされて終わりだ。







それで、
そのとき風が吹いたのか、吹かなかったのか、覚えていない。



3年前の話だ。

近くをタクリノの群れが通り過ぎたりすると、
胸騒ぎがして、
あの空気を思い出す。


私はシイナの群れには戻らず、
ゆっくりゆっくり歩いてきて、3年が経ち、ここにいる。


目の前に、シイナでもタクリノでもない動物がいる。
『キタキタ』というらしい。
同じ亜冷温動物で、体温の調節を不得意とする。
だから一緒にいると、
ただでさえ苦手な体温調節が拍車をかけて混乱する。
それは大変だけれど、
なんだか嬉しいような楽しいような気分だ。


キタキタのことはそれ以外知らない。
そんなことはどうでもいい。
なんとなく、似ている。
キタキタも『ヒト』から派生した種なのかもしれない。



今日も3年前のように少し肌寒い日だった。

また一人になって、
あの空気がまた訪れて、冷たい風が吹いたとしたら、
今度こそ本当に終わりだ。

もう体温を保つ自信がない。



そしたらいっそ赤い熊に食われてしまおう。

生意気にみえる方法を覚えて、
食われてしまおう。



息が白くみえて、
キタキタにそのことを伝えようとした。

気温よりも冷たかった日のことを思い出して、
震えそうになったけれど、

横にいたキタキタは駆けだすことはなく、
何も言わず、
自分の息をその空気に投げ出して、
楽しそうに遊んでいた。



笑ってしまった。
まだ熊に食べられずにすみそうだ。
風が吹いても大丈夫だ。


遠くで森が揺れているのが見えた。
あそこに風がある。
それはこっちに向かって移動しているようだ。














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by dasein100-1 | 2006-03-13 19:36 | 038 その空気に冷たい風