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朝7時のカフェには店員以外誰もいなかった。
僕は一番奥の席に座り、読みかけの本を広げた。

客が1人入ってきた。
白髪交じりの、やけに日本人離れした顔立ちのサラリーマンだ。

彼は僕の隣の席に座る。
他に空いてる席はいくらでもあるのに、何食わぬ顔で。

ふと、知り合いだったかと記憶を探ってみたが、
そんな初老の紳士など、まるで覚えがない。

僕は無関心を装いながら、彼の横顔を観察する。
下手に刺激して、なれなれしく話しかけられたりでもしたらやっかいだ。

しかし、何も起こらなかった。
彼はコーヒーを片手に、小さく畳んだ新聞に一通り目を通すと、店を出て行った。

なぜわざわざ僕の隣に。
気になって、読みかけの本を1ページも進ませることができなかった。


今日はおかしな日だ。


それから僕は電車に乗った。
ラッシュと逆方向に向かう電車はとても空いていた。

優先席の向かい、一番端の席に座る。
そして、本を広げる。

次の駅で乗客が1人。
黒いコートに、ブランドものの小さな紙袋を持った女性だった。

彼女は僕の隣に座る。
他に空いてる席はいくらでもあるのに、素知らぬ顔で。

ふと、知り合いだったかと記憶を探ってみたが、
高い香水の匂いのする美人など、まるで覚えがなかった。

体が触れないぎりぎりのところで、彼女は座って目を閉じている。
眠ったふりをして、僕の肩に寄りかかってくるのかもしれない。

しかし、何も起こらなかった。
次の駅に着いた瞬間彼女は目を開き、すっと立ち上がり電車から降りた。

なぜわざわざ僕の隣に。
彼女が横にいるあいだ、読みかけの本を1ページも進ませることのできなかった。

今日は本当におかしな日だ。
本を閉じて、どういうことかしばらく考えてみた。

例えば僕は昨日のうちのどこかで死んでいて、
そのことに自分で気づいてないのかもしれない。

そういうわけで誰も僕の存在に気づかないのであれば、
こんなおかしな日の帳尻もあう。

手のひらを眺めてみた。透けては無い。
顔に触れてみた。感触もある。

いつもと変わらない。
でも、それは、こういう感覚は、夢の中でも在るものだ。

突然、発車音がする。
僕はびくっと肩を縮めて我に返り、慌てて電車を降りた。

いつのまにか、目的の場所に着いていたらしい。ある人に会うためにここまできた。
ここには数えるほどしかきたことが無い。

中途半端に店の立ち並ぶ駅前。
昼時のファミレスは、意外に空いている。


「元気か。」

「はい。」


僕は聞かれたことに単語で答え、
あとは運ばれてきたカレーを黙々と食べていた。


「最近どうだ。」

「特に何も、ないです。」

居心地が悪くて、読みかけの本の続きが気になった。
そして1ページも読み進められなかった原因の、今日の出来事を回想した。

「…おかしな日だな。」

「どうした?」

独り言を拾われてしまった。
僕は一瞬視線を皿から外しかけて、やめた。カレーを混ぜた。

「今朝、店で見知らぬ人が僕のすぐ隣に座ったんです。空いてたのに。」

「それが、どうした。」

「他にいくらでも席があるのに、わざわざ他人の近くになんて不自然じゃないですか。」

「…」

返事が来なかったことが意外で、僕は思わず顔をあげた。
その人は色黒で、伸ばしっぱなしの髪と髭がだらしなく、ヤニで歯が黄色い。
枯れたような肌をしているが、窪んだ目に妙な力がある。
その目にぶつかって、慌ててまた下を向いた。

「そういう距離だったからだろう。」

正面から視線を感じつつ、僕はまた皿をいじる。

「距離?」

「そいつらとオマエはそういう距離だったんだ。それだけのことだ。」

「全く知らない人ですよ。」

「そらそうだ。世の中はほとんどが知らない人でできている。」

「え?」

「距離と、認識と、気持ちの大きさは無関係だ。」

「ん?」

的を得ているような、得ていないような話をする。
そういうところが少し苦手だ。

「ところでオマエはなんで、そんな遠いところから話をしてるんだ。」

僕とその人は向かい合って座っている。
けれど別々のテーブルに1人ずつ座り、間にさらに1つテーブルをまたいでいる。

2人の間は5m以上ある。見た目にも居心地の悪い距離で、
雑音に紛れて聴こえるか聴こえないかぐらいの会話をしている。

「ところでオマエはいつから、俺に敬語を使うようになったんだ。」

「・・・」

沈黙のあと、その人は笑った。その顔が、やけに老けてみえた。
また会話が途切れた。

そのうち、僕とその人の間にあったテーブルに小さな子を連れた家族が楽しそうに笑いながら席に着いた。
少し疲れた父の顔は、メニューを広げて笑い合う人達の影で見えなくなった。





理由はないけど、遠回りして帰ることにして、バスに乗った。
空いていた。

僕は幼い頃、「降ります」のボタンを押すのが好きで、
目的のバス停がアナウンスされるのをドキドキしながら待っていたことを思い出した。

ブレーキがかかり、バスが停車し、乗客が1人。
制服を着て眼鏡をかけた、高校生ぐらいの女の子だ。

彼女は僕の横に立つ。
他に空いてる席はいくらでもあるのに、真面目な顔で。

顔をのぞきこんでみたが、全く面識がない。


こんな近くにいるのに全く知らないことが不自然なのか、
全く知らないのにこんな近くにいるのが不自然なのか、
それは不自然じゃないのか、
よくわからなくなってきた。

「どうして、ここに?」

話しかけると、彼女は天井の広告の辺りに泳がしていた視線を僕に移した。
少し悲しそうな顔をした。

次の瞬間、彼女の姿は僕の横から消えて、
驚いて車内を見回すと、彼女はいつの間にかバスの後部座席の端に座り窓の外を見ていた。

どうしてここに?と、責めたわけじゃない。ただ問いかけただけだ。

似たような状況を思い出した。
たった一言で離れていった人を思い出した。

もう一度振り向いて彼女の顔を見た。
本当に知らない人だっただろうか。


いろんな距離のことを考えた。


遠くにいて、会えない人のことを考えた。
場所の問題じゃない。近くにいくにはどうしたらいいのだろう。



今日は本当におかしな日で、気が遠くなる。

父は別れ際に、幸せそうな家族の向こう側から
「お前の辛くない位置に俺をおいてくれればいい。」
と言った。


それは自由で、簡単なようで、気が遠くなるくらい難しい。



帰りの電車も空いていたが、
ジャージ上下で金のチェーンをじゃらじゃらつけた男が僕のすぐ横に座った。
読みかけの本は結局、1ページも進まなかった。












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by dasein100-1 | 2006-01-15 02:55 | 033 d: