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029




10℃ (砂中)




朝がきて、いつものようにアラームがなる。
目が開かない。
どんなに頑張っても、まぶたの上の筋肉が伸びるだけ。
ぐるぐるとした意識の渦から抜け出せない。
朝に、弱い。
夢と現実の境界線がなかなかひけない。
どんな違法な手術でもいいから。
すっきりと一瞬で起きれるスイッチを私につけてほしい。
そのスイッチは目立たないように耳の後ろに設置されていて、
おまけにタイマー式だから、自分で押す必要もない。
頭も目もシャキっとして、おいしいトーストを食べて至福の朝を迎える。
なんて。そんな願いは叶うわけがなく。
会社に行く身支度が全て整っても、私はまだ混沌とした世界にひきずられている。
私が本当に住む世界は、さっきまでいたあっち側だと思うな。
目が覚めたこの世界が、たぶん嘘だと思う。
だからもう一度帰らせてください。
未練がましくテーブルに突っ伏すと、テレビから偶然占いの結果が聞こえた。

「今週の12位はごめんなさい、蟹座です。」

蟹座。ね。
もっと早くテレビを消しておけばよかった。
占いなんてそもそも信じてないから、最下位だと言われると余計気分が悪い。
でもそれって、信じてるってことか。
なんだか無性に腹が立ってきて、目が覚めた。
体を起こし、必要以上にリモコンのボタンを強く押し、テレビを消した。


そうだ、これから朝は頭にくることを思い浮かべることにしよう。
最悪だと思っていた物事に、こんな使い道があるとは。




あぁ空気が冷たい。
明日からマフラーをしていこう。
寒くなってきた。

10月。
家を出て、ただそう感じただけの、普通の日だった。
目覚めと占いが最悪だったこともふまえて、
とてつもなくいつもと変わらない日だった。

駅までの道。
冷たい風が吹いて、少し肩をすくめた瞬間。
私は突然カサカサしたものを左手の指の間に感じた。
何も触っていないし、誰も近くにいなかったのに。
それは突然出現した。
指でつかんだまま、目の前にかざしてみる。

1枚の紙。
レシート?
その紙にはサラサラとした小さな白い粒がいくつか付いている。
なにこれ、砂糖?
指をくるっとまわし、紙を裏返す。
『16℃』
じゅうろくど?

16℃

頭痛がした。
これは、普通の出来事なのか。そうじゃないのか。
私にとって、それを判断する作業はとても困難で、
そういうときは決まって頭が痛くなる。




精神科と脳外科に通ったことがある。
かなり昔のことだけれど。
病院の匂いと、蛍光灯のぼんやりとした廊下をよく覚えている。
ふんわりとした匂いのする看護婦さんと、
訪ねる度にヤクルトをくれた、腸炎で鬱病のおばさんをよく覚えている。
医者の説明によると、
私の頭は構造的にひどく曖昧に作られていたらしい。


君の場合、「物事」の振り分けが、うまくいかないんだ。
例えば、投げたボールが弧を描いて上から下に落ちることは「普通」のことで、
例えば、ボールがひとりで宙に浮いてあっちこっちに動き回りだすことは「普通」ではない。
わかる?わかるよね。
君は頭がいい。それはテストで証明されている。
言われたことを「理解できない」というわけじゃないんだ。
ただほんの少しだけ人と違うのはね、君の中に、そのなんていうか、
「普通」がうまく作られていないんだ。
人は「帰納法」「演繹法」を使って、
ある基準というものを自分の中につくりあげていく。
簡単にいうと頭の中でいつも審判が行われているんだな。
これは普通のこと、これは普通じゃないこと。
これは正しいこと、これは正しくないこと。
そうやって自分で下した判断を、繰り返し書き込んでいくんだ。
モラルだとか価値観とかいうものは、大人になるほど固まっていく。
間違えて書き込んでいくと、社会で生きるのに困ったことになる。
君はそういった判断を間違えるわけではない。
判断すること自体をしない傾向にあるらしい。
さっき僕はボールの話をした。
生きていくなかで、ボールが落ちるという「普通」の現象をいやというほど見ることがあるだろう。
そしてボールを投げるとこうなる、という一般法則を作って理解する。
それが帰納法だ。
ボール以外のもの、例えば投げられた林檎が弧を描いて落ちる現象を目にすることもあるだろう。
でもボールの「普通」を知っていれば驚くことはない。林檎だろうが、鞄だろうが、猫だろうが。
これが演繹法だ。
そして、そうだな。例えば今ここでカボチャを投げるとする。
机にあるこれ、この小さいオレンジ色のカボチャだ。
もうすぐハロウィンだからね、さっき看護婦さんからもらったんだ。
さて、どうなると思う?

私は必死で考えた。
先生の言うことはわかった。ボールの話もよくわかった。
聞かれたことの答えは、すぐそばにあるような気がした。
でも、出てこなかった。
だから、「カボチャ」に関するあらゆる情報、「投げる」という動作に関するあらゆる情報、
私の中に記録されていたものをぐちゃぐちゃにひっぱりだして、
無理やり短縮して、言葉にする。

「…緑になる。それで、つぶれる。」


そうか、そうだな。
こんなオレンジのカボチャが投げられるところは見たことないもんな。
緑になるかもしれない。
僕も投げたことないからね、否定はできないよ。
力一杯床に叩き付けたら、カボチャもつぶれるかもしれないね。


そんなことを言いたいわけじゃなかった。
先生の力の無い笑顔に、たまらなく悲しくなった。


いろいろ調べてわかったんだけど、
君は集めた物事をカテゴリーに分けたり、式にしてイコールに結ばない傾向にあるらしい。
みかんが1個と、いちごが1個ある。たしたらいくつですか?
と聞かれても、「みかん1個といちご1個」と答えるだろう。
いや、「みかんの上にいちごを載せる」と答えるかもしれない。
でもその答えは一般的じゃない。
いくつですか?という質問の意味も理解しているし、1タス1ができないわけじゃないのはよくわかってる。
君は「ケインズ理論」が理解できるぐらいなんだから。
最初はふざけてるのかと思った。からかわれてるのかと思った。
申し訳ない。これは重大な問題だった。
その特殊な思考はとてもすばらしいと、僕は思う。
でも。人よりも極端すぎるんだな。この先、生きづらいだろう。

なんだか話があっちこっちにいってしまって混乱させたかもしれないな。
とにかく僕の言いたいことは、
まず君の中に「基準」を築くリハビリから始めようということだ。



これは昔の話であって。
リハビリを続けた結果、私は普通の人になれた。





でもたまに。
たまに思考が混乱すると、頭痛がする。


私はただ、「16℃と書かれた紙を突然手にした」
という事実だけを飲み込むことにした。
深呼吸をして、その紙をそっとポケットの中にしまった。

そしていつものように、会社に向かった。





「あさはらー。寝るな~。」
ぐわん ぐわん
後ろから頭をつかまれ、まわされる。
椅子の背もたれががくっと後ろにさがり、転げ落ちそうになる。
慌てて背筋を伸ばし振り向くと、にやにやしながら加藤が立っていた。

「加藤さん」
「浅原、おまえなぁ。どれだけ寝たら気が済むんだよ。」
「あっ。大丈夫です。いま気が済みました。」
「またどうせ午後も寝るんだろ。」
「寝ま…せん。」
「お前のデスク、催眠ガスがでてるのかもな。」
「いや、え、そうなんですか。」
「きっとでてるよ。オレ今まで会社で寝たことないのにさ、最近午後めちゃくちゃ眠くなるんだよ。絶対そこから変な煙出てんだって。まぁいいや。昼飯行こうよ。」
時計をみると、13時を過ぎていた。
「あ。あの、今日は。すいません。」
「なに。」
「今日はちょっと。お昼、約束がある気がするんです。」
「…気がする?」
加藤は眉にしわをよせて、複雑な表情をした。
「そっか。じゃ、一人で行くわ。」
さっと目をそらし、加藤はオフィスから出ていった。
私はぼんやりとその後姿をみる。
「気がするって…断り方、もうちょっと考えたら。どうしたの。いつも誘われたら行ってたじゃない。」
隣の席の坂巻がキーボードを叩きながら、責めるような口調で言う。
「本当に…気がするんです。」
「そう。別に追求はしないけど。私はあんたと約束してないわよ。」
「ですよね…。あの、坂巻さん。 『16℃』ってなんですか?」
「はぁ?」
坂巻は手をとめて、大きな目をめいっぱいに開いてから、ゆっくりと瞬きをした。
「浅原…寝ぼけてるの?不思議系にもほどがあるわよ。」
「ですよね…。すいませんなんでもないです。ちょっと行ってきます。」
「どうしたの。大丈夫?なんかあった?」
「いや、大丈夫です。」
心配そうな坂巻の視線を背後に感じながらオフィスを出ると、
足は自然と街中にあるオープンテラスの店に向かっていった。
なんとなく、約束がある気がしている。
なんとなく、この店を知っている気がする。
中に入ると、Tシャツにジャケットを着て、左耳にピアスをした、
テラス側の席に座る人と目があった。
なんとなく、この人を知っている気がする。
思わず、手をあげてしまった。
その人は、笑顔を見せた。

「お腹すいた?」
「うん。すごく。もうなんか頼んだ?」
「いや、オレも来たばっかり。」

知っている気がする。


「いい?呼ぶよ。」
「ちょっと待って、まだ決めてない。」
「どうせオーダー直前まで決められないくせに。すいませーん。」
「え、まっ、あのさどっちがいいと思う?」
「知らねーよ。」
そう言って笑うこの目の前の人を、知っている。
気がする。



「なんでシーフードのパスタ選んでエビ残すわけ?」
「エビ苦手だから。」
「それは知ってるよ。でもシーフードの意味ないじゃん。」
「エビ以外の具は好き。あとシーフードっていう響きが好き。だから無性に食べたくなった。」
「なんだそれ。」
笑いながらフォークを伸ばしエビを食べてくれるこの光景を
前にも見た気がする。


「あ、これ、聴いたことある。」
「ん?」
「今店に流れてるの。」
「ああ、そういえばこないだ部屋で流した。」
「やっぱり。今度貸して。」
「いいよ。隙間がいいんだよ。この人らの音楽。」
「隙間?」
「音が薄くなるところ。
 聴きこむと、濃い部分よりも薄いところにツボがあったんだ。
 淡い色を目立たせるために原色を使ってるような感じ。」
「ふーん。私はたぶんその原色の部分が気になってるだけだと思う。」
「もちろん最初はね。聴き込んでみてよ。」
「うん。」
その音楽を私はすでに何度も何度も繰り返して聴いている気がする。


「なんか空があやしいね。」
「あぁ雪降るんじゃないの。」
「そしたら今シーズン初だね。あーマフラーしてくるんだった。」
「寒い?テラスじゃなくて、中にすればよかったな。」
「平気。寒くないし、寒いの好き。」
「なんだそれ。どっちだよ。」
「ねぇ、今何度?」
「あー、えっと、10℃。これあってんのかな。」
「ほんっと変わってるよね。なんで温度計持ってるの?」
「うーん、なんとなく温度計が好きだから。」
「時計は嫌い?」
「嫌い。」
手のひらサイズの温度計をジャケットにしまうその姿をよく見た気がする。

「ね、ペン貸して。」
「なにすんの。」
「今日の温度を書いて、置いて帰る。」
「くだらねーなぁ。」
「あ、コーヒーきた。この砂糖の容れ物可愛いね。」
「こぼしてるよ。砂糖。」
「あーほんとだ。思った以上にサラサラだった。ちょっと、その赤いのなに。」
「酒。カクテル。」
「いつのまに。昼間だよ。しかもこんな寒いのに。」
「寒いから、暖房代わりに。これさ、なんて書いたつもり?」
「え?『10℃』。10℃だったでしょ。」
「『16℃』に見える。0、はみ出しすぎ。それ書き癖だよな。
 そういえばオレ、最初の電話かけ間違えたよ。お前の汚いメモのせいで。」
「そうだったの?」
「知らないオヤジにかかった。田中さんって人。いい人だったから登録した。」
「それおもしろい。」
「おもしろくねーよ。」
たくさん電話をした気がする。たくさん話をした気がする。



6に無理やり線を重ねて、太い0にした。
ありがとうと言って、ペンをかえした。
どういたしましてと言って、笑って受け取ってくれた。
ふと名前を思い出した。呼ぼうとした。
そしたら、消えた。
思い出したはずの名前も消えて、
目の前にいたはずの人も消えた。
『10℃』と書いた紙も消えた。


頭痛がした。
これは、普通の出来事なのか。そうじゃないのか。
私にとって、それを判断する作業はとても困難で、
そういうときは決まって頭が痛くなる。



頭痛がおさまったとき、雪が降ってきた。
なんだか全てが曖昧に思えてきた。
私はここで寝ていて、しばらく夢を見ていたような気もする。
会社に戻ろう。加藤さんには、
「お昼に一人でたっぷり寝たから、午後は絶対寝ません」と言おう。




あんなにはっきりと見た夢なのに、もう曖昧だな。
テーブルに向かい合った人の笑顔だけを、しっかりと覚えている。




明日になればまた朝がきて、境界線に迷う。
でも、街を歩いて、会社に行って、
とにかく沈まないように歩いて、
そうすれば少しずつ、
なぜこの場所で生きているのかわかる気がする。











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by Dasein100-1 | 2005-10-31 09:53 | 029 10℃(砂中)