カテゴリ:026 初花凛々( 1 )

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初花凛々




ふわふわのタオルを鞄に入れて、薄いオレンジの傘を持って外へでた。

また雨だ。
暗くて、じとじとして、気分が滅いるなぁ。


薄いオレンジの傘は、それほど小さいわけではない。
でもいつも、傘をさしても意味のないことが多い。
結局、到着する頃にはずぶぬれになっている。
おかしいなぁ。
スカートの端が濡れて濃くなる。

早朝。
人気のない社内で、微かに物音がした。
奥のデスクから、カチャカチャとキーボードが鳴る。
中谷だ。

「おはよう。」
「おはよう。」

珍しい。いつも遅刻ギリギリにくるのに。
こんなシチュエーションは運がいいのか、悪いのか。
たぶん、悪い。



「雨だね。」
「うん、梅雨だね。」
「早く過ぎるといいよね、梅雨。」
「ホント。」



「梅雨ってじめじめするよね。」
「そうだね。早く終わって欲しいね。」



沈黙。




サイアクだ。

話そうとして、話し出す。そんな感覚に囚われる。
「無意味」で「くだらない」会話を選んでしまう。

意識するといつもこれだ。
もしくは無理をして、無意識に、トゲのある言葉を吐くか。

そういう風なことばかりしてきた。
人を好きになると疲れるんだ、ということがわかった。
だから、やめる。それで無しにする。
繰り返す。


「雨降ってるよね?」
「え?」
「外。雨だよね。」
「うん…そうだよ。」


この不自然な空気は耐え難い。
早く誰か来ないかな。



「暇だったらでいいんだけど。」

中谷はすごく眠そうな顔をしていた。
もしかしたら、昨日はここに泊まって仕事をしていたのかもしれない。

「なに?」
「ちょっと駅まで送ってくれないかな、傘忘れたんだ。」
「帰るの?」
「うん、まぁ似たようなもの。」

まだ朝の8時で、始業時間までに余裕はあった。
誰かがくる気配もなかった。
なのに、こう答える。

「誰かの置き傘があるんじゃないの?使っちゃえば?」

拒絶することが癖になっている。
今までの歴史を考えると、
このまま時が経つにつれ徐々に距離ができて、結局友達以下の関係になる。


「うーん。オレもうここ戻ってこないから。悪いじゃん。」
「明日返せばいいんじゃないの。」
「もうずっと戻ってこないんだ。だから無理。」

中谷は目をこすりながら、帰り支度をする。

「ずっと?」
「そう。ずーっと。」
「…会社辞めるの?」
「うん、まぁ似たようなもの。」


中谷の机は、昨日と一昨日と変わらず雑然としている。
パソコン、書類やファイル、趣味のフォトグラフ、コーヒーカップ、非常食。
会社を辞める人の机には見えない。
中谷は声を出しながら大きく伸びをして、よし。といいながら鞄を手にした。


「送ってくれる?暇だったらでいいんだけど。」
「いいよ。」


外へ出ると、さっきよりも雨が少し強くなっていた。
もっと雨がバカみたいに降って、
洪水がおきて、雷や風でそこらじゅうが荒れ狂って、
めちゃくちゃになればいいな。
そしたら、話題がなくて困ることもない。

傘を開く。

「オレンジ好きだっけ?」
「ううん、別にそうでもない。たまたま。」

たまたま選んだ色の下で、沈黙がつづく。
出社する人の波を逆走する。

数ヶ月前、中谷は何でも話せる相手だった。
でも、何を話していたか思い出せない。
どうやって話をしていたか思い出せない。

沈黙に疲れて、
触れるべきか、触れないべきか迷っていた話題を出す。

「本当に辞めるの?」
「いや、辞めるって言うか…逃亡。」
「逃亡?」
「たぶん一生会えなくなるよ。そういう危険な仕事をたった今してきた。」
中谷はチラッと自分の脇に抱えた鞄を見て、ニヤッと笑った。
私は無視した。

「本当だって。」
「もう少し仕事真面目にやったら?」

軽口のつもりだったのに、黙られると困る。
辛くなってきた。

薄いオレンジの傘は、それほど小さいわけではない。
でもいつも、傘をさしても意味のないことが多い。
結局、到着する頃にはずぶぬれになっている。
特に2人でなんて、無理があったみたいだ。

地下鉄の入り口についたときには、
私も中谷も、髪から服からほとんど雨でびしょびしょだった。

「あんまり送ってった意味なかったね、ゴメン。」
「いや、こっちこそゴメン。」

もうここにいる意味がなくなった。
機会を拒絶することが癖になっている。
私はためらわず『じゃあ』と言ってすぐに背を向けた。

「本当なんだ。急な話だけど、本当にもうあの会社には戻らないんだ。」

後ろから声がして立ち止まる。
地下鉄の入り口で、中谷は少し悲しそうな顔をする。

「だからって今特別に何かを言わなきゃいけない関係じゃなかったけれど。」

よくわからないけれど、本当に会えなくなるらしい。
中谷の表情で、一瞬にしてその実感が伝わる。
だとしても、今更。
例えば「実は前から」と言ったとして、どうにもならない。

「この先何かが起こる可能性がないのなら、昨日と一昨日と同じ挨拶をしたほうが楽だと思う。」
「そうだね。」
「本当にもう戻ってこないの?」
「本当に。」


私が泣く意味がわからない。
ついさっきまで普通なふりをしていたのに、急にわけがわからなくなった。
涙腺がゆるい。得したことは一度もない。
あまりに顔がぐしゃぐしゃになってきて、
近づいてきた中谷を拒絶するように、鞄からタオルをだして顔を覆う。

中谷は困ったような笑顔で言う。
「用意がいいね。」
腕を伸ばして軽く背中を抱えてから、固くタオルを握った手をほどいて
「いつか、また。」
と勝手に柔らかい握手をして去っていった。


何も言えなかった。また同じことをしてしまった。
会いたくても会えなくなる人が増えた。
気分が滅いるなぁ。



今日付けで、中谷の名前は会社のブラックリストに載った。
この業界では珍しい話じゃない。





梅雨があけた。


「おはようございます。」
「おはようございます。」

ビルの前に毎朝立っている警備員さんと笑顔を交わす。
ただ挨拶をする。

体の一部を、例えば爪の先をほんの少し、動き出した電車にぶつけるような感じ。
ホームにはたくさんの人が整列している。
電車の中にもたくさんの人が並んで座っている。
私はホームの際に立ち、電車に指を伸ばす。
ほんの一瞬2つの世界がかすめる。

カツン



それ以上に世界が交錯することは稀なことだ。
たまたま選んだ色の下で、どんな話をするのかなんてことは
たいしたことじゃない。

でも、宇宙的な確率を持つ偶然。
会いたいと思うことは、
ただ単純に、一番重要なことだといつも思う。



ただ単純に。














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by Dasein100-1 | 2005-06-19 00:13 | 026 初花凛々