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006



コーヒー


もう忘れてしまったけれど、確かあの辺りにカフェがあったんだ。
静かで、居心地がよくて、快適な場所だった。

決まって、4人の客がいた。

丸眼鏡のヒツジの席はいつも右の隅。
若いクロウサギは左の窓際。
外国帰りのラクダはカウンター。
そして僕はいつもバルコニーにいた。

ヒツジは経済新聞を広げ、
クロウサギは恋愛小説を読み、
ラクダはマスターに旅の話をしていた。
そして僕は文章を書いていた。

ヒツジは5時に、
クロウサギは7時に、
ラクダは閉店まぎわに帰った。
そして僕はラクダの背中を見てから、
マスターに礼を言って立ち上がった。

コーヒーがおいしかった。
正直、僕は苦いものがダメで、
シロップとクリームの瓶を交互に3回傾けてからじゃなきゃ飲めなかったけど、
あの店のコーヒーが好きだった。

顔を合わす程度で、
言葉は一言も交わしたことがないけれど、
たまに無性に会いたくなる。

いま、
ヒツジはどんな仕事をしていて、
クロウサギはどんな恋をしていて、
ラクダはどんなところを旅しているのか。
マスターはまだどこかでコーヒーをいれているのか。



僕が10年間気を失ってる間に、店はなくなってしまっていた。

みんなはそんな店もともと無かったと言う。
そうかもしれない。
僕は10年間のうちに何もかも忘れてしまったのかもしれないけど、
コーヒーの匂い、シロップとクリームの感覚が残っている。


僕は後悔している。

もしもう一度、あの場所に戻れたら、
あの客達に
僕がどれだけあの店が好きなのか、一生懸命伝えようと思う。
きっとみんなびっくりすると思うけど、本当のことだから。

もしもう一度、あの場所に戻れたら、
二度と見失わないように、あの店のことをしっかり覚えておこうと思う。

ヒツジが眼鏡と新聞をたたむ5時。
クロウサギがため息をついて本を閉じる7時。
ラクダがボロボロの鞄を手にし、マスターが店を閉じる10時。

そして僕はまたバルコニーで文章を書きながら、甘いコーヒーを飲むのだ。









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by Dasein100-1 | 2004-10-21 00:31 | 006 コーヒー