カテゴリ:005 蝶( 1 )

005








その白い腕には、赤と青の細い血管が透けてみえた。
それがあまりにも鮮やかで、
とっさにつかんだはずだったのについ離してしまった。
触ってはいけないものを触ってしまったような気がした。
そんな不自然な動作を無視して、
彼女は宙に浮いた自分の腕を蛍光灯にかざし、まじまじと眺めた。

「説明してあげようか?」
「…なにを?」
「ヒトの血がなぜこんな風に見えるのか。」

彼女はシマという。
恐ろしく華奢な身体をしている。
全ての色素が薄くて、
茶色くて柔らかい髪も、眉も、骨を撫でるようにしか生えていない。

「ヘモグロビンがどうとか、そういう話だろ?」
シマはその灰色の目を細めて、
世界中の人間を見下すような顔をした。
「貧相な思考ね。低俗。どうせ貴方も芋虫のまま腐って死ぬんだわ。」
国営放送の局員のように上品な声でそう言った。
そしてまた真っ直ぐ前を向き歩き出した。

すでに夜だった。
夕立のあとの匂いがした。
雑なつくりの歩道には、逃げ場を失った雨がところどころに小さなテリトリーを作っていた。

「靴ぬれるよ。」
「知ってる。」
足元で水が跳ねる。
シマはそのアンバランスな体を左右に揺らしながら先を歩いていた。
「知ってる。そのうち陸はほとんど無くなるってことでしょ。」
「陸?」
「海に飲まれて、陸が無くなる。足を載せられる場所はほんのわずかよ。」
夜の薄暗い街の中で、彼女の姿は切れかけの蛍光灯のようにぼんやりと浮かんでいた。


「陸が無くなるってことは境界線がなくなるってことよ。わかるでしょ。」
「わからない。」
「上か、下か。昇るか、堕ちるか。どっちだと思う?」
「言ってることがわからないよ。」





「だから、蝶よ。ヒトは最終的に蝶になる。」
「蝶?」
「肩甲骨が背中を突き破って空に向かって伸びて、羽になるの。」


急に目の前が明るくなった。前方から来る車のヘッドライトだった。
一瞬目が眩んだ。
我に返るとシマがすぐ横にいて、顔を近づけて聞いてきた。
「黒アゲハは何色?」
「黒。」
「貧相な思考ね。紫よ。方程式による正しい色。」
細くて白い腕が、そっと首に絡まる感触がした。
目の前に、鮮やかな2色の血管がちらついた。
「わかるでしょ?」
「わからないよ。じゃあ陸が沈むのはいつ?」
「もうすぐ。」

突然、皮膚を破るような音がして、
シマの背後から対角に2本ずつの長い骨が突出した。
その骨に沿って、薄い膜が揺れるようにして広がった。
羽だ。

そのとき、再び前方からやってきた車のヘッドライトにやられ、
僕はまた、目を閉じてしまった。
そして彼女の姿は消えていた。




次の日、高い空に紫色の蝶が舞っているのを見た。
その場所はここからとても遠くて、
見上げると眩しくて、胸が痛かった。

残念ながら僕は中途半端な生き物で、
飛ぶことはできない。
だから上でも下でもない場所を、
ぐしゃぐしゃに濡れた靴でただひたすら歩いた。









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by Dasein100-1 | 2004-10-16 03:00 | 005 蝶