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バベル



ワケのわからないものに埋もれる。
それだけはゴメンだ。
左の通路から白い塊がこっちに流れてくるのがわかった。
雪か?いいや、もっとモヤモヤしたものらしい。
早く脱出しよう。
もときた道を振り返ってはいけない。
これはルールだ。
ぐるっと眼球だけを回し、現状の選択肢を確認した。

天井にあいたマンホールと、
正面のエレベーター。
萩原はコンクリート壁に囲まれた廊下に一人立ち、考えた。
広い空間で、やけに孤独を感じる。
先ほどくねくねと曲がった奇妙なトンネルを通ったのだが、
そこを出たとき180cmあった萩原の身長は12cmになってしまっていた。
なぜ?
理由を考えることなど、やめた。

天井の既成概念として、この部屋のそれは低かったが、
人間の既成概念としての萩原の方が異様にちっちゃかった。

そういう訳でマンホールには遥かに手が届かない。
決心し、エレベーターに向かって彼は走りだした。

遠い。こんなに必死で走っているのに。
間抜けな音がしているに違いない。
笑えるぐらい非力だ。
ようやくたどり着き、膝に手を置いて呼吸を整えた。
目の前に立ちはだかる異様に大きなドアを見上げて、気付いた。

しまった。
この背じゃボタンに手が届かない。

息が切れて汗だくなのに、冷や汗まで出てきた。
どうしよう。

頭を抱えてしゃがみこむと、足元にちょっとした段差があり、
かかとがひっかかって尻もちをついた。
なんだこれは。
自分の大きさほどある△▽のマークが床から突出していた。
エレベーターのボタンのようだ。

まさかこんなとこに設置されてるとは思わなかった。
でも、どっちが上でどっちが下なんだ?
この際どうでもいい。
ここにいたら埋もれて終わりだ。
顔をあげると、左の通路から流れ出た白いモヤモヤしたものはすぐそこまで迫っていた。
近づけば近づくほど、見れば見るほど、それらは正体がつかめない。
こういう説明しにくいものは、たいていたちが悪い。

腕に全体重をかけて、ドア側の△を地面に埋めた。
マークに光がつき、遠くからレールの動く音が聞こえた。

エレベーターを期待していた。
しかし萩原の身体はそれが現れる前にこの部屋から消えた。
ボタンだと思われた△のマークはそのまま限りなく地面に沈み、
そこに両腕を預けていた彼は、つんのめるようにしてその三角の空洞に落ちた。

ずぶずぶと土の中に沈む。
黄色の正三角形とともに彼は下へと降りていく。

しまった。また逆戻りか。
とにかく上に進まなければならないのに。
ならないのに?
なぜ上を目指していたのだろうか。
忘れた。

地中は以外に派手だった。
きちんとした層ができていて、各層に民族や文化が形成されているようだった。
ゆっくりと最下層へ向かう間、
地中に住む者たちの、ヤケに楽しげな音楽やにぎやかな踊りをいくつもみた。
似たような光景を小さい頃に見た覚えがある。

「イッツ・ア・スモールワールド」

センスの悪い服をきたネズミが主役の『夢の国』だ。
いつ人形達に襲われるかと思い、恐怖で手が震えていた。
そんな風に意図をはき違って生きるのが、
僕の人生だ。


ガタンと音がして、下へと落ちる動きが止まった。
いつのまにか到着していたようだ。
ここはどこだろう。
町だ。
ざわざわとした懐かしい音が聞こえる。
地中を降りてきたはずなのに、空が見える。
夕暮れだ。以前はよく目にした、薄い赤色の空。

街の入り口に門が立っている。
近づいてみるとそれは門ではなく、巨大なマルボロ(赤)だった。
オブジェではない。多分、普段手にしていた普通のそれだ。
萩原自身がさらに小さくなったという証明。
横に立って並んでみた。
4分の1マルボロか。

夕食の匂いがする。
ここは、皆が煙草より小さなこと以外は普通の町だ。
生まれたところは、こんな穏やかな町だったような気がする。
ここなら、何も考えずに幸せに暮らせるかもしれない。
理由、思想、矛盾、葛藤。
感じないという安堵。ただ温度だけがある。


古びた本屋の前で、誰かにTシャツの裾をひっぱられた。

「ねぇ、ちょっと手伝って欲しいことがあるの。棚に手が届かなくて、ジャムの瓶が取れないの。」
知らない女の子に連れられて、知らない家に着いた。
けれどその家はどこかで見たような気がする。
女の子の年は多分同じか少し下、誰かに似ている。

キッチンに案内され、流しの上の棚から蓋のついたガラス瓶を取って渡した。
「ありがとう。」
感触が軽くて、瓶の中には何も入っていないように思えた。
「それ、空じゃないの?」
問いかけられた彼女は不思議そうな顔をした。
「空よ。」
「え?」
「これからいれるのに、空じゃない瓶を使うの?」
彼女はコンロの上にのっていた大きな鍋のフタを上げた。
ジャムの匂いが熱い蒸気とともに広がった。
「少し疲れてるなら休んでいったら?2階にベッドがあるから。」

階段の下にきて、絶句した。
螺旋階段が2つ、互いに絡まるようにして上に向かって伸びている。
目を細めても、一番上が点にしか見えない。

「2階って」
「この上。」

2つの階段は、それぞれ1段目手前の床に数1つずつ字がふってある。
「3」と、「5」。
女の子の顔を見上げると、彼女は頷いて言った。
「どちらを選んでも同じことよ。」
萩原は3の階段を選ぶことにした。
階段を一歩踏み出して、聞き忘れた質問を思いだし、もう一度立ち止まった。

「名前は?」
「バベル。」
「いや、階段の名前じゃなくて、君の名前。」
「聞いてどうするの?」
「上ってる間、暇だから考える。どんな音楽を聴くのか、どんな映画が好きか、とか。名前がなければ想像がわかない。」
「無駄よ。戻ってきたら教えてあげる。」
彼女は笑って手を振った。
萩原は頷いて、螺旋階段を上り始めた。


わかっている。戻るために上るワケではない。
だからもう二度と会えないだろう。
彼女は賢明だ。
地に足をつけ、ジャムを煮ているほうが断然幸せでいられる。

萩原は想像してみた。
キッチンで瓶にジャムを流し込む彼女に
様々な音楽を合わせ、週末の予定をくんでみた。
ダメだ。
名前がなければすぐ消えてしまう。


階段の上のほうから、白い粉のようなものが降ってきた。
たぶんこれは、愚かな人間が階段の途中で力尽き、
何万年も放置されて風化した骨が舞ってここまで落ちてきたのだろう。


それでも、自分だけは。
この先に何があるのか見れるのかもしれない。


萩原は階段を上り続けた。
顔の皮膚が乾燥し、脚の関節が軋んだ。
爪が白く濁り、伸びた髪が抜け、
死んだ細胞が剥がれ始めた。


擦り切れる程繰り返し思い出した大事な記憶が、
徐々に曖昧になり、完全に消えようとしていた。


最後の選択は、たった2つ残った記憶。
決められていたルール。
最後に会った人。




忘れたのは、ルール。
そして、振り返った。



目を覚ますと、見慣れた部屋のベッドの中だった。
1階から自分を呼ぶ声が聞こえる。
階段を降りると、キッチンからジャムとトーストの匂いがした。
萩原は窓側の椅子に座り、マルボロに火をつけた。
彼女がキッチンから顔をだし、驚いた顔をした。
そんな風にするのは3ヶ月ぶりだと。
いつからか魂が抜けたようにぼんやりとして、
名前を呼んでも答えてくれなかったと言った。
「僕が?」
彼女は頷き、今にも泣き出しそうな顔をした。
嬉しそうな表情と、泣くのをこらえるのとで顔がぐしゃぐしゃに歪んでいた。
その上すっぴんだったから、笑えるぐらい不細工だった。
でもそれは言わないでおこう。
心の底から愛しいと思ったけれど、これも言わないでおこう。


テーブルには病院の領収書やワケのわからない薬が積まれていた。


萩原はスーツに着替え、3ヶ月ぶりに家を出た。
外は眩しかった。
網膜に入る光の粒が、まるで白い粉のようだった。
とっさに目を閉じた。

バベルに
上るか、上らないかの話だ。


まぶたをゆっくり開けると、
世界の残像が揺らいで消えた。
目の前に現れたのは、はっきりとした現実の輪郭だった。
選択に自信はない。
でも、後悔もない。

振り返ってみた。
窓から顔を出した彼女が見えた。

だから、その名前を呼んだ。












by Dasein100-1 | 2004-11-04 00:36 | 010 バベル