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溶ける魚





目を閉じたら、一瞬で溶けてしまうらしい。

身体の全てがスルリと液体になり、
床にこぼれて、その床の隙間からもっともっと下に落ちて
地下に流れる水に変わる。

「辛い」とか「うんざりだ」とかいう思考も拡散して
もちろん「幸せ」だとかそれに似た気持ちもバラバラになって
なにもかもが、柔らかくぬるい水になる。

そうやって溶けてしまうのは
きっと気持ちが良くて、
不安など一切なくなるのだろう。


でも、なんだか、それは困る。
悲しい気持ちになる。

だから、必死に目を開けていた。

一瞬でも気を抜くと落ちてしまいそうな意識に耐えていた。





「無理してるんじゃないの?」

不意に、声が聞こえてくる。
人を不愉快にさせる類の声。


「眠いんだろうなぁ。ひどい顔してるよ。」

ふと顔をあげると、顎の尖った男が目の前にいた。
目の色が薄い。
どことなく錆びた金属の匂いがする。

壁にもたれてだらりと身体の力を抜き、
床に膝を抱えて座る私を見下すような視線を投げてくる。


男には目の下にひどいクマがある。
その黒いラインは、耳とか口と同等な存在感で
男の顔の一部として存在している。

発せられた声は聞き取れないほど擦れていたが、
音の出るものが何もないこの部屋では十分響いた。


この部屋?

ここはどこなんだろう。
灰色の壁しかない。
空気が冷えている。

どこだろう。

モスクワの地下か。
0℃以下でも絶対的に凍らないモノをいれる冷凍庫の中か。

もちろん、どちらも体験したことはない。
想像するに、それに近い。

こんなに現実感の薄い部屋へはきたことがない。
まるで「生まれる前」と「生まれた後」という2つの世界の境界にある隙間だ。



「無理してるんじゃないの?」

男は煙草を1本吸うごとに、同じセリフを言う。
何度も執拗に。

意識の中では閉じかけている私の目が、
その言葉で覚醒するのをそいつは知らない。

まだ長さのある煙草を床に落とし、
箱からまた1本。


「眠いんだろう。」


「うるさいな。」


私が反応するより早く、
少し離れたソファーに座っていた女の子が小さな唇を動かした。

「お前が一番先に消えてしまえばいいんだ。
 地下にも地上にもお前のいる場所なんかない。
 記憶よりもあてにならない夢なんかを過信した超現実主義者なんかよりも
 無駄で価値のないお前なんて
 ただ妄想の中を蠢く泥になってしまえ。」

背が低くて、細くて、
大きな目にザラメのようなマスカラをやまほどくっつけた女の子の口から紡がれた言葉は
難解で奇妙で物騒だった。

しかし、それを聴いた男は、
心底楽しそうに、眉尻を下げ、肩を揺らして笑った。

そしてふと、真顔になり視線を床に落とした。

「泥か。」

そしてジーンズからはみだした裸足の指で
コンクリの床にできた割れ目をなぞる。

「俺は全てが不純物でできているからなぁ。
 確かにもし溶けることができたとしても、せいぜい泥だろうな」

床の割れ目は細かく、
まるで意思があるかのように、
コンクリの床に有機的な線を走らせていた。

「泥だと厳しいな。この隙間じゃ。」

悲しい声で言う。

「落ちきらない。」




なぜだかぼんやりと、その男の悲しい気持ちがわかる。
私達は溶けるためにこの部屋にいる。

けれど、自分より先に誰かが目を閉じて、
溶けることを望んでいる。

でも結局、それはただの順番で、
私達は溶けるためにこの部屋にいる。

溶けて、下に落ちて、地下に流れる水に変わる。

それを望んでいる。



「参ったなぁ。」


不意に左からぼそぼそした声がする。
誰の目にもつかないような場所で、サラリーマンがしゃがんでいる。


「これでもね、僕けっこう忙しいんですよ。
 いろんなとこからね、沢田さん沢田さんお願いしますって電話かかってきてね、
 大変なんですよ。ほんとにすごく疲れるんですよ。
 こんな愚痴っぽくなったのは忙しいせいですけど、
 忙しくないのって、これがまた不安で仕方がないんですよね。」

サラリーマンは突然すっと立ち上がり、
「お先に失礼します。」
と鞄を抱える仕草をする。


でもその腕に鞄は無い。

泣きそうな表情で、手を頭にあてたりスーツの袖をむしったりしている。
不安定に歩き、きょろきょろと部屋を見渡す。
  
不意に目が合う。

「すみません。」

と、癖のように素早い小声であやまられる。

「すみません、すみません。」

あやまられても困る。


「うるさい。」


私がうろたえ言葉を濁していると、
再びソファーに座っていた女の子が小さな唇を動かした。


「おまえが、溶けてし、まえ。」


そう言う少女の目蓋は細かく痙攣し、
ひどく眠たそうだった。


寝ちゃだめだ。
でも私も含めてここにいる人たちはみな
とても眠い。







少女が爪を噛みだした。
そのカチカチカチカチという音が響く。


カチ カチ カチ カチ


まるで時計の秒針だ。







錆びた金属のような男が、カサカサに乾いた唇を舐め、
何かを言いかけ、
しかし自分の言葉を飲み込むようにして黙る。


男の唇はどうしても乾いてしまうようだ。
その唇の擦れ合う音さえ聞こえる気がする。


女の子が爪を噛むのをやめ、
幼い声で言う。


「ここはどこ?」


私は何度かまばたきをし、それを思い出そうとする。



急に部屋がぐらりと揺れる。

その瞬間、張り詰めていた意識が途切れ、
強く目を閉じてしまう。

もう一度目を開けるエネルギーは無い。

なぜだかほっとして、ゆっくりと揺れる箱の中で溶けていく。








8月。
北海道。

清流のある山奥。

キャンプに来た。
テントを張る場所として決定された河原で、
灰色の箱を拾った。

清流に晒されてたせいか、
拾い上げるとひどく冷たかった。

プラスチックでも、金属でもなく、
適度に軽く頑丈で、
しかしところどころに割れ目が走っていた。


耳に近づけると、
『カチカチカチカチ』と音が鳴った。


「あやしい。」

「爆弾だな。ロシアの兵器がここまで流れついた。とか。」

「流れついたって、ここ上流だろ。
 兵器が川を上ってきた。産卵のために?」

「あぁ、それだ。この山奥でそいつは夏になると産卵し、
 大量に孵化した爆弾でこの国は」

「くだらない。」

「なんでロシアなの?中国じゃなくて。」

「ロシアのほうが近いよ。こっからじゃ。」

「ああそうか。」

「すっげー見た見た?いま魚が跳ねた。あの辺、ほらあの」

「わかったから早く釣ろう。」

「釣るの?」

「今日の夕ご飯はお魚にしましょう。」

「いいねぇ。」

「釣竿は?」

「ないよ。誰か持ってきたんじゃないの?」

「誰が?西尾か。」

「いや。俺じゃない。」

「藍か。」

「持ってない。」

「じゃあ」

3人は会話をとめて私に振り向く。

「ないよ。」

「じゃ、素手釣りだな。」

亮司が私の腕を掴み、
川にむかって手加減せずに突き飛ばす。

川原の石でバランスを崩し、
転びそうになり必死で掴んだ亮司のTシャツが伸びて
引っ張られた亮司は他の2人も巻き込んで川に濡れる。

結局私も、引っ張られてずぶぬれになる。

そして右手に持っていた箱は、水面に放り出される。

私たちが笑いながら大騒ぎしている間に、
カチカチカチカチと音がした不自然な箱(兵器の疑いあり)は、
下流に流されみえなくなる。




声をあげて笑っていたはずの一瞬、
周囲の音が消えて、
不意にその箱の中の景色が見えた。




とても悲しい景色だった。
けれど静かでどこか懐かしい。




音が戻って、仲間のはしゃぐ姿が目の前にあった。
川に足をひたしてくしゃくしゃに笑っている自分がいた。





ここは箱の外なのだろうか。




透明な水の中にある見えない魚の影を思って、
世界の認識がぐらりと揺らいだ。


水に浸された足をつたって、
意識だけが透明な液体に溶けて流されていった。
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by dasein100-1 | 2006-11-25 01:23 | 050 溶ける魚