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自転車



木下君という知り合いがいる。
彼は都内の私立大学に通い法律を学ぶかたわら、
趣味でサックスを弾く。

骨格が目立つような華奢な身体で、
あごが細く尖った顔をしている。
知的で、
自分に似合う服を嗅ぎ分けるセンスを持っている。

「スマート」
という言葉がぴったりな人だ。


ただ、いつも、
片方しかレンズの入っていないメガネをしている。

それはポリシーというやつらしい。



彼は少し変わっている。


しかしそれ以上に際立った特徴として、
非常に風変わりな自転車を持っている。

毎日それで学校へくる。




 【自転車(じてんしゃ)とは、二つの車輪がついていて、
  自走できる動力源が付いてない乗り物をさす】



彼はいつもよく背中に黒くて大きな円状のものを背負っている。
それは28インチの2つの車輪である。
そして手にはまるでペンケースを持ち歩くかのように
剥き出しのペダルを持っている。


車輪が2つと、ペダル。


それが彼の自転車だ。



それだけで十分事足りる。
なぜなら彼の自転車の場合、
フレーム(本体)となるものは無数に存在し、
都合がいいときに、適したそれを選べばいいのだから。

彼の自転車は本当に便利だ。
車輪をつけたものが自転車になる。
さらにペダルをセットして、
それをこげばなんだってスイスイと走り出す。

たとえば。

たとえば公園のベンチ、

たとえばカーネルサンダース、

たとえば女子高生、



なんでも自転車になる。

本体は硬質な金属のパイプが組み合わせられたものとは限らない。
むしろあんなものは、非合理的だ。
第一あれは自転車のフレームになる以外他に使い道がない。
非常に使い勝手が悪い。

と言う。


犬好きの彼は、よく本体に大型犬を選ぶ。



彼が自転車として利用している間は、
4つの脚はタイヤと同化していて、
あらゆる苦痛も記憶もなくなる。
もはや犬は犬ではない。


 【動物(どうぶつ)とは、動物界に分類される生物の総称である。一般に運動能力と感覚
  を持つ、多細胞生物である。体外から養分を摂取する従属栄養的な生物である。 】


登下校の途中や、街で彼を見かけるときは、
たいていいつも自転車に乗っている。


このあいだは、体が小さくてしっぽの切れた猫に乗って学校にきた。

しかし彼は浮かない顔をしていた。

「なんだか悪いことをしているようで乗り心地が悪かった」
と、車輪を外しながらそう話した。


でも猫にとって彼のそんな感情は、
夏に生え変わる毛よりも不要でどうでもいいものである。

彼は猫の車輪をはずし、
愛情というやつでたっぷり感謝をしめそうと、
手を伸ばした。
けれどそれは宙でさみしく泳ぎ、行くあてがなくなった。
猫はすばしっこい体で跳ねるように駆け出し、
あっという間にいなくなって、振り返りもしなかった。

「知ってるんだ。
 乗り物に愛着を持つのは乗る側だけで、
 そんな押し付けがましい感情は、
 乗られる側には必要のないものだ。」

彼はそんな風に言いながらも、
寂しさで泣きそうな顔をしていた。

僕に見られていることに気づくと、
瞬間的に表情を消してこう言った。

「これもエゴだ。
 どうせ帰りにはまた違う猫か何かを選ぶんだから。」





たまに人間にも乗る。

サラリーマンにも、
パン屋にも、
校長先生にも乗る。
友達に乗ってるのも見た。

「乗ってみたい子はたくさんいる」
と女の子を見ながら話しているのを聞いたことがあるが、
それは自転車として、という意味なのかどうかはわからない。











彼の自転車はとても便利で、
ペダルと車輪を付ければ、なんでも自転車になる。






「僕がいつも片方レンズのないメガネをかけているのは、

 あまりに物事をバランスよく見すぎるからだ。

 こんなおかしな自転車を持っているのも、

 簡単に『乗れない』ものがあることを学ぶためだ。」




木下君はあまりに頭がよく、
器用な人間に生まれてしまった。



幼い頃の記憶に痛みはない。




自転車にもすぐ乗れた。




普通は

ぐらぐらして、ふらふらして、
たまに派手に転んだりして、
励まされたり、後ろを支えてもらったり、
でもいつの間にか乗れるようになる。


彼にはそんな経験がない。




「結局僕に乗れないものなんて無かった。
 こんなものだけで何にでも乗れちゃうんだ。
 悲しいことだよ。」


木下君は車輪とペダルを僕に向かって投げた。


僕はうまく受け取れなくて、
車輪があっちこっちに転がっていくのをなんとか追いかけて、
落としてしまったペダルを拾って、彼の前に戻ってきた。


彼は両手をひらひらと動かし、
「要らない。やるよ。」
という仕草をした。


彼の真似をして
近くにあった看板に車輪をつけようとしたが全然うまくいかなくて、
猫に近寄ってみたが逃げられ、
車輪とペダルを抱えて結局何もできなかった。



僕には使いようがない。
みじめで泣きそうになった。


「泣きたいのはこっちだ。」


木下君は少し離れた場所から、
聞こえるか聞こえないかぐらいの声でそう言った。


なぜ彼が泣きたくなるのだろう?



「自転車持ってる?」


持ってない。そういえば僕はもともと自転車に乗れない。

首をふると、彼はスタスタと近づいてきて
僕の手から車輪とペダルを取り返した。


そう、どうせ僕は自転車に乗れなかったんだった。


そう伝えると、

「自転車に上手に乗るには、バランス感覚が必要なんだ。
 でもね、そんなものはあっても幸せなわけじゃないし、
 なかったからって悲しいことじゃない。 」

と、言い残し、
木下君は自分の身体に車輪とペダルをつけ、自転車になってしまった。

普通の自転車だ。

なんでもない、
金属のパイプがフレームになった自転車だ。


残された僕は、それを放置するわけにもいかず、
ゆっくりと歩きながら手でひいて帰ることにした。

元は木下君だったと思うと、乗る気にはなれない。


傷をつけたらどうしよう、
壊してしまったらどうしよう、
無くしてしまったらどうしよう。




でも、そうだ。

乗り物に愛着を持つのは乗る側だけで、
そんな押し付けがましい感情は、
乗られる側には必要のないものだ。



僕はたまに間違える。
感情のかけかたをよく間違える。



彼は片方レンズがないメガネをしていても、
本当に物事がよく見えていて、
バランスのいい考え方をしていた。


うらやましいと思っていたけど、
自転車になってしまった。


すぐ乗れることも、乗れないことも、
たいして変わらないのかもしれない。


無駄なことは考えないようにしよう。


僕は素敵な自転車を手に入れたということだけを考えた。
それはすごく幸せで、
都合がいいことで、
なんだかとても楽しくなってきた。


元は木下君だった自転車に乗って家まで走った。


十数年ぶりに乗った自転車で、
なんどか転んで地面でかすり傷を作ったけれど、
風が顔をなでて、
最高に気持ちが良かった。




でも
なんとなく物悲しいのは、

僕も彼に影響されて、
世界は全てそんな風にできていることに気づいてしまったからだった。





乗れることも、乗れないことも、
たいして変わらない。

世界は全て、そんな風に。
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by dasein100-1 | 2006-08-09 01:31 | 046 自転車