050




溶ける魚





目を閉じたら、一瞬で溶けてしまうらしい。

身体の全てがスルリと液体になり、
床にこぼれて、その床の隙間からもっともっと下に落ちて
地下に流れる水に変わる。

「辛い」とか「うんざりだ」とかいう思考も拡散して
もちろん「幸せ」だとかそれに似た気持ちもバラバラになって
なにもかもが、柔らかくぬるい水になる。

そうやって溶けてしまうのは
きっと気持ちが良くて、
不安など一切なくなるのだろう。


でも、なんだか、それは困る。
悲しい気持ちになる。

だから、必死に目を開けていた。

一瞬でも気を抜くと落ちてしまいそうな意識に耐えていた。





「無理してるんじゃないの?」

不意に、声が聞こえてくる。
人を不愉快にさせる類の声。


「眠いんだろうなぁ。ひどい顔してるよ。」

ふと顔をあげると、顎の尖った男が目の前にいた。
目の色が薄い。
どことなく錆びた金属の匂いがする。

壁にもたれてだらりと身体の力を抜き、
床に膝を抱えて座る私を見下すような視線を投げてくる。


男には目の下にひどいクマがある。
その黒いラインは、耳とか口と同等な存在感で
男の顔の一部として存在している。

発せられた声は聞き取れないほど擦れていたが、
音の出るものが何もないこの部屋では十分響いた。


この部屋?

ここはどこなんだろう。
灰色の壁しかない。
空気が冷えている。

どこだろう。

モスクワの地下か。
0℃以下でも絶対的に凍らないモノをいれる冷凍庫の中か。

もちろん、どちらも体験したことはない。
想像するに、それに近い。

こんなに現実感の薄い部屋へはきたことがない。
まるで「生まれる前」と「生まれた後」という2つの世界の境界にある隙間だ。



「無理してるんじゃないの?」

男は煙草を1本吸うごとに、同じセリフを言う。
何度も執拗に。

意識の中では閉じかけている私の目が、
その言葉で覚醒するのをそいつは知らない。

まだ長さのある煙草を床に落とし、
箱からまた1本。


「眠いんだろう。」


「うるさいな。」


私が反応するより早く、
少し離れたソファーに座っていた女の子が小さな唇を動かした。

「お前が一番先に消えてしまえばいいんだ。
 地下にも地上にもお前のいる場所なんかない。
 記憶よりもあてにならない夢なんかを過信した超現実主義者なんかよりも
 無駄で価値のないお前なんて
 ただ妄想の中を蠢く泥になってしまえ。」

背が低くて、細くて、
大きな目にザラメのようなマスカラをやまほどくっつけた女の子の口から紡がれた言葉は
難解で奇妙で物騒だった。

しかし、それを聴いた男は、
心底楽しそうに、眉尻を下げ、肩を揺らして笑った。

そしてふと、真顔になり視線を床に落とした。

「泥か。」

そしてジーンズからはみだした裸足の指で
コンクリの床にできた割れ目をなぞる。

「俺は全てが不純物でできているからなぁ。
 確かにもし溶けることができたとしても、せいぜい泥だろうな」

床の割れ目は細かく、
まるで意思があるかのように、
コンクリの床に有機的な線を走らせていた。

「泥だと厳しいな。この隙間じゃ。」

悲しい声で言う。

「落ちきらない。」




なぜだかぼんやりと、その男の悲しい気持ちがわかる。
私達は溶けるためにこの部屋にいる。

けれど、自分より先に誰かが目を閉じて、
溶けることを望んでいる。

でも結局、それはただの順番で、
私達は溶けるためにこの部屋にいる。

溶けて、下に落ちて、地下に流れる水に変わる。

それを望んでいる。



「参ったなぁ。」


不意に左からぼそぼそした声がする。
誰の目にもつかないような場所で、サラリーマンがしゃがんでいる。


「これでもね、僕けっこう忙しいんですよ。
 いろんなとこからね、沢田さん沢田さんお願いしますって電話かかってきてね、
 大変なんですよ。ほんとにすごく疲れるんですよ。
 こんな愚痴っぽくなったのは忙しいせいですけど、
 忙しくないのって、これがまた不安で仕方がないんですよね。」

サラリーマンは突然すっと立ち上がり、
「お先に失礼します。」
と鞄を抱える仕草をする。


でもその腕に鞄は無い。

泣きそうな表情で、手を頭にあてたりスーツの袖をむしったりしている。
不安定に歩き、きょろきょろと部屋を見渡す。
  
不意に目が合う。

「すみません。」

と、癖のように素早い小声であやまられる。

「すみません、すみません。」

あやまられても困る。


「うるさい。」


私がうろたえ言葉を濁していると、
再びソファーに座っていた女の子が小さな唇を動かした。


「おまえが、溶けてし、まえ。」


そう言う少女の目蓋は細かく痙攣し、
ひどく眠たそうだった。


寝ちゃだめだ。
でも私も含めてここにいる人たちはみな
とても眠い。







少女が爪を噛みだした。
そのカチカチカチカチという音が響く。


カチ カチ カチ カチ


まるで時計の秒針だ。







錆びた金属のような男が、カサカサに乾いた唇を舐め、
何かを言いかけ、
しかし自分の言葉を飲み込むようにして黙る。


男の唇はどうしても乾いてしまうようだ。
その唇の擦れ合う音さえ聞こえる気がする。


女の子が爪を噛むのをやめ、
幼い声で言う。


「ここはどこ?」


私は何度かまばたきをし、それを思い出そうとする。



急に部屋がぐらりと揺れる。

その瞬間、張り詰めていた意識が途切れ、
強く目を閉じてしまう。

もう一度目を開けるエネルギーは無い。

なぜだかほっとして、ゆっくりと揺れる箱の中で溶けていく。








8月。
北海道。

清流のある山奥。

キャンプに来た。
テントを張る場所として決定された河原で、
灰色の箱を拾った。

清流に晒されてたせいか、
拾い上げるとひどく冷たかった。

プラスチックでも、金属でもなく、
適度に軽く頑丈で、
しかしところどころに割れ目が走っていた。


耳に近づけると、
『カチカチカチカチ』と音が鳴った。


「あやしい。」

「爆弾だな。ロシアの兵器がここまで流れついた。とか。」

「流れついたって、ここ上流だろ。
 兵器が川を上ってきた。産卵のために?」

「あぁ、それだ。この山奥でそいつは夏になると産卵し、
 大量に孵化した爆弾でこの国は」

「くだらない。」

「なんでロシアなの?中国じゃなくて。」

「ロシアのほうが近いよ。こっからじゃ。」

「ああそうか。」

「すっげー見た見た?いま魚が跳ねた。あの辺、ほらあの」

「わかったから早く釣ろう。」

「釣るの?」

「今日の夕ご飯はお魚にしましょう。」

「いいねぇ。」

「釣竿は?」

「ないよ。誰か持ってきたんじゃないの?」

「誰が?西尾か。」

「いや。俺じゃない。」

「藍か。」

「持ってない。」

「じゃあ」

3人は会話をとめて私に振り向く。

「ないよ。」

「じゃ、素手釣りだな。」

亮司が私の腕を掴み、
川にむかって手加減せずに突き飛ばす。

川原の石でバランスを崩し、
転びそうになり必死で掴んだ亮司のTシャツが伸びて
引っ張られた亮司は他の2人も巻き込んで川に濡れる。

結局私も、引っ張られてずぶぬれになる。

そして右手に持っていた箱は、水面に放り出される。

私たちが笑いながら大騒ぎしている間に、
カチカチカチカチと音がした不自然な箱(兵器の疑いあり)は、
下流に流されみえなくなる。




声をあげて笑っていたはずの一瞬、
周囲の音が消えて、
不意にその箱の中の景色が見えた。




とても悲しい景色だった。
けれど静かでどこか懐かしい。




音が戻って、仲間のはしゃぐ姿が目の前にあった。
川に足をひたしてくしゃくしゃに笑っている自分がいた。





ここは箱の外なのだろうか。




透明な水の中にある見えない魚の影を思って、
世界の認識がぐらりと揺らいだ。


水に浸された足をつたって、
意識だけが透明な液体に溶けて流されていった。
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# by dasein100-1 | 2006-11-25 01:23 | 050 溶ける魚

049





バス待ち



K高校前のバス停から乗ったバスは、
2人席に1人ずつ、ちょうどいい具合に席が埋まっていて、
そのどれかを選んで「すみません」と言いながら他人の横に座るのは
めんどうで、
駅までだいぶ距離があったが、立つことにした。


文庫本にしようか、ipodにしようか迷ったが、
結局ゆれたバスの中でバックを探るのが
めんどうで、
ただぼんやりと窓の外を見ていくことにした。


歩道を歩く人をバスの中から見る。
こんな風に知らない人から無遠慮に見られてるなんて、
歩いている人はまるで意識してないだろうと思うと、
自分が見られてるような気がして、
気分が悪くなって視線を車内の広告に移した。


新築マンション
コンタクトレンズ
資格取得通信教育


興味ないな。


バスが交差点を大きく旋回して、
身体がぐらりと揺れる。
ガタガタッとヒールで派手な音を立ててしまう。


立ち仕事で疲れがたまっているのは自分でもわかっている。
正直、座りたい。

ぐっとつり革をつかみ転ばないように耐えていると、
後方の席に座っていた男の人が
髪をいじり、マフラーを首に巻き、立ち上がるのが
窓の内側に映って見えた。

次の停留所を伝えるアナウンスが流れた。

よかった。座れる。

その人が完全に席を離れてしまうまで、様子を窓で確認した。
狭い通路で軽くお互いの背中がすれ、
見えないと思ったがとりあえず会釈して空いた席に落ち着くと、
ふと眠気がおそってきた。

駅まで寝ていこう。


目を閉じた途端、左腕に何かが触れる。
空いてる片方の席に誰かが座る。

まだ停留所についてないはずで、
人が乗ってきた気配はないのに、
なんなんだ。


目を開けると、横には
しらじらしくマフラーをとり、
パカッと携帯を開けて、閉じて、
座席にもたれかかってくつろぐ男がいた。

隣に座ったのは、さっきまでそこに座っていた男だった。
立ち上がって、降りる準備をしていたはずの。


なんだこいつ。
降りるとこ間違えたのかな。

「いやいや、そういうわけじゃないんだけど。」

何も言ってないのにいきなり話しかけてきた。

関わらないほうがいい。

わざと窓のほうを向き、
視線を合わさないようにする。

「立ってるの辛くなかった?よかったね、座れて。」

よかったね?
わざと立つふりして席譲ってくれたってこと?
じゃなんで横座ってくんだよ。

きっと次に『どこ行くの?駅まで?俺も俺も』
とか言ってくるんだ。
ああ、めんどうなことになったな。



でもそれから隣の男は一言もしゃべらなった。

そもそもバスは駅に着かなかった。

よくわからない道を走り続けて、
そのうち外は雪が降ってきて、
停留所のアナウンスも流れなくなって、
誰も「降ります」のボタンを押さなくて、

雪がやんで、
また雪が振ってきたと思ったらそれは桜の花びらで、
桜が散るその中をバスは走っていた。



「今年の桜は散るのがあまりに早いね。」
「そうだね。」
「もう少しもつと思ったけど。」
「こないだの強い雨にやられたんだよ、きっと。」
「桜は弱いね。」
「うん、弱いからいいんだよね。」
「そうだね、そういうものだよね。」



バスの中で誰かが小声でしゃべっている。
背伸びをしようとしている、
幼い声。

首をのばして声の主を探すと、
前のほうに小学生の女の子が2人座っている。


隣の男も首をのばし、その可愛らしい話を盗み聞きしている。

それから、この人はことあるごとに
『そうだね、そういうものだよね。』
という彼女達の真似を繰り返すようになる。

そんな気がする。
なぜだか、そんな想像が瞬間的に頭に浮かぶ。
記憶なのか、想像なのかわからない。



その口真似は3ヶ月は飽きずに続く。

「ねー洗濯物が乾かないよ。これ今日着たいのに。」
「乾かないからいいんだよね。」
「は?」
「そうだね、そういうものだよね。」

「もうそれやめなよ。」

イライラして、私がそう言うまで。



これが想像だとしたら、
どうしてこんなにリアルなんだろう。




バスの中は、だんだん騒がしくなってきた。

1人ずつ座っていたはずの席が、いつの間にか人で埋まっている。

5歳くらいの男の子とお母さんのいる席から、
「危ないから開けちゃダメ」
という声と同時に、
突然強い風と一緒に桜が舞って入ってきた。


そして、眩しい光が窓から入ってきて、
いつの間にか車内の天井にある扇風機がまわりだした。

バスは海沿いを走っていた。



見たことがあるような、ないような海だった。

堤防があった。


日焼けと言えないほど色素が沈着した黒い肌に、白い無精ひげ、
骨と皮だけのような腕で、
釣りをしているおじさんがいた。


「釣れますか?」

安易に声をかけたら、怒鳴られた。

「そういうこという奴がいるから釣りがつまんなくなんだよ!」

よくわかんない理屈だったが、掠れた声であやまった。
機嫌が悪かったのか、なんなのか、
たいしたことじゃないけれど、
大人になって誰かに怒鳴られるのはショックだった。

とにかくその場を早く離れようとしていたのに。


「釣りがつまんないわけねーだろ!チビ!」

と、後ろにいた男が怒鳴り返した。


沈黙が流れて、波の音がした。


一瞬何が起こったかわからず、数秒後我に返ってあわてて振り返ると、
男は怒鳴った割に普段と変わらない表情で、

「釣りめちゃくちゃおもしろいよね。」
と、拍子抜けするような口調でさらにおじさんに話しかけた。

黒くて痩せてて確かに背が低いおじさんは、
急に怒鳴り返された上に昔からの知り合いのようなれなれしさで話しかけてくる
わけのわからない男にただ驚いていて、声をださずに小さく頷いていた。

で、釣れてんの?

と言って、勝手にクーラーボックスを開けようとするその腕をひっぱり、
堤防の上を早足で帰った。




これも想像だろうか。




いつのまにか蝉の声がしなくなって、
静かになり、
今度はイチョウ並木の下でも走るんじゃないかと思っていたら、
本当にそうなって、
黄色い葉がばさばさと落ちる中をバスは走った。


隣の男はあれからずっとずっと黙ってて、
ときどき携帯をパカッと開けて、時間を確認して、閉じた。




「まだこない。」

きまぐれに突然発せられたその声に、なぜだか瞬間緊張する。

男は少し首を伸ばし、左右を確認するようにきょろきょろしてから、
またどさりと座席に沈んだ。


「何がこないの?」

関わらないようにしようと思っていたのに、思わず言葉を返してしまった。

「バス。」

「え?」

「バス待ってんだけどなかなかこないんだ。」


そのとき、ちゃんと顔を見た。
でもすぐ見るのをやめた。
苦しくて、話せなくなりそうだった。


「…バス、こないと思うよ。」

「なんで?」

「なんでって。いま、乗ってる。」

「あ、あーなるほどね。」

男は驚いた顔をして、そのあと心底納得したように何度か頷いていた。

頭がおかしいんじゃないかと思ったけど、
そのおかしなところと、
素直すぎる仕草に、全ての感覚が慣れていた。


「じゃーしょうがないや。これも要らないな。やる。」

そういって、持っていた携帯を私の手に載せた。

「言っとくけど、それ時計がわりにしかならないから。」

縁が傷だらけの黒い携帯だった。

「3年もったんだ。すごいだろ。」

何かがついてたはずなのに、切れてしまった。
そんなストラップの破片がついていた。

また雪が降ってきた。
嵐のように激しくなってきて、走るバスの窓にさえ雪が積もって、
外が見えなくなる。


「そろそろ降りなきゃ。」

突然男はそう言って、
髪をいじり、マフラーを首に巻き、
降りる支度をはじめた。


「こんなときに?外すごい嵐だよ。」

私の言葉には答えずに、
マフラーを首にもう一回転させる。
鼻まで隠れて苦しかったのか、
もごもごと顔を動かしながらマフラーから抜け出そうとしている。

私はイライラして、マフラーをはずしてやる。
それを待っていたかのように、
顔と顔の距離が近いそのときに、妙に真剣な表情で話し出す。

「そうそう。誰かの横に座るのが気まずいのもわかるけど、
 立ってると疲れちゃうからさ。座ったほうがいいよ。どこでもいいから。」

「どこでも?」

「いや、もちろんこの席が一番いいけど。」

「え?」

「ここ。」

『自分の隣』とでも言いたげに私の席を指さし、
しれっとした顔で言う。

「座れてよかったね。」


なんだその言い方は。

別に座りたかったわけじゃない。

でも私はこうして窓際にいて、
立ちあがって出ようにもこいつがどいてくんなきゃでられない。


「大丈夫、もうすぐどくから。」

髪をなでられた。

そして突然目の前が暗くなる。
すっと立ちあがった男の影で、バスの蛍光灯がさえぎられる。

「もうすぐ。」

やっぱいい。どかなくてもいい。





3年前からずっと
ゆれるバスで無理して立っていた。
他の誰かの隣に座るのも、座られるのも嫌だった。



3年前、バスを待っていた。
隣に座るはずだったバス。


来なくて、違うバスに乗った。
それでも、待っていた。
バスに乗って、バスがくるのを待っていた。


ありがちな、すれ違いってやつで、
一生会えなくなった人がいた。


どんなに待ってもバスから降りなきゃ違うバスには乗れないし、
降りたところで、もうそのバスには乗れないのに。




駅が近づくアナウンスが流れて、
私は時計代わりにしかならない携帯をバッグにいれ、
マフラーを首に巻き、降りる仕度をした。

バスが完全に止まり、徐々に立ちがる乗客の先に、
もういちどその姿を探してしまったけれど、
いるわけがなくて、


だから、バスを降りることにした。



雪が降っていて、鼻が隠れるまでマフラーを巻いた。

泣いてもわからないように、そうすることにした。
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# by dasein100-1 | 2006-10-19 02:22 | 049 バス待ち

048








飛ぶ鳥は好きだったが、それ以外の鳥は嫌いだった。
特に鳩は嫌いだった。

あの重量を感じる丸い胴体に吐き気がした。

昆虫は好きだった。
正確に言うと透明な羽を持った昆虫が好きだった。

でも、羽をもがれた虫は死ぬほど嫌いで、
虫の死骸が転がっていた道を3ヶ月は遠回りした。


昔から異常なほど『羽』が好きで、
それだけが好きで、
羽が無く、
ごろごろと、ぼてぼてと、だらしなく歩く人間が大嫌いだった。

羽が欲しかった。

爽やかな希望ではなく、強くて偏った欲望だった。



二十歳になる頃まで、その欲望はどうしようもなく頭の中を支配した。
広い視野、バランス、適応力。
皆無だった。
内側にあるコントロールの効かない感情だけを信頼していた。

極限まで痩せ、
部屋の照明を全くつけず、わざと目を悪くした。
テレビもオーディオも壊して音を排除し、
水を好み、笑い声を嫌い、
性欲を消した。

飛ぶためだ。

自分は特別な存在で、何か特別な感覚と能力を、
得られると信じて疑わなかった。

それで、鳥でもなく虫でもなくもちろん人間でもない身体が完成したら、
次に物理的な「羽」を得て、そのうち、必ず飛べる。
と、思っていた。

羽 羽 羽

 羽 羽 羽

  羽 羽 羽

朝に目が覚めて、夜になりストンと意識が消えるまで、
そのことばかり考えていた。

ボロボロになるまで強く思い続けたことに関しては、
さして恋愛と変わらない。
しかし「羽」に対するそれは甘くて柔らかな恋愛感情なんかではなく、

そんな心地よい感情ではなく、

強くて偏った渇望だった。




そう。「羽」に病んでいた。


笑えない話だ。
ということに気づけるぐらいにまで「普通の人」に戻ることができたのは、
幸せなのか不幸せなのか。

今はサラリーで生活をし、適度な数の友人がいて、週末に食事をする彼女がいる。

病みから抜け出たことにきっかけなどない。
時間が経って、そうなった。

過去の偏った自分を思い出すたびに、
強く目をつぶり、両手で耳を塞ぎたくなる。

それは嫌悪感や気恥ずかしさではなく、恐怖に近い。

思い出すだけで、
普通の自分を失いそうになる恐怖だ。

しかし同時に、
普通じゃなかった自分を完全に忘れてしまうことへの恐怖にも襲われる。

相反する恐怖に挟まれてバラバラになりそうで、
強く目をつぶり、両手で耳を塞ぐ。

そんなことを繰り返し、
自分を保つために一番都合のいい方法は、
「忘れた」ということを常に演じながら、
瞬間だけ過去の記憶を味わうことだと知った。

本当に一瞬だけ。
それ以上だと、精神も身体も完全に壊れてしまう。


『人には過去の記憶による自虐的な行為が必要だ。』
と、本屋の店頭に並んでいたベストセラー本に書いてあった。

失恋の記憶であったり、家庭の不和であったり、
コンプレックスであったり、
そういう記憶の中の痛みを何度も繰り返し味わうこと、
それは辛いものを欲するのと似て、
マゾヒスティックに、ある種の快感を得ているのだと。



なるほどね。



非常に的を得た考え方だ。
普通はそうなんだろう。
痛みや恐怖なんて、快感のうちで、
自分が楽しんでいることにさえ気づかないほど
たいしたことのないものなんだろう。


うらやましい。
そういう類の傷は、気持ちがいいんだろうな。




「直樹。」

不意に名前を呼ばれて、右手の指から煙草を落とした。

「どうしたの?」

綺麗に整備されたテラスの床に、落ちた煙草の赤い火が散らばる。

「あ、いや。なんでもない。」


呼吸を整える。
少し考えすぎていた。あやうく自分で空けた穴に落ちるところだった。


「で、どうする?」

「…どうするって?」

「旅行の話。聞いてなかったの?」

不自然に傾いて頭蓋の奥で留まっていた思考が
徐々に平衡感覚をとりもどし、
状況を把握しだした。

今日は土曜だ。
真由と昼食をとり、その後テラスのあるカフェで話をしているところだった。
えっと、何の話をしていたんだ。

「あぁ、うん。そうだね。」

「そうだね、ってなに。聞いてたの?」

「ごめん。なんだっけ。」

「12月に行く旅行の話。」

「あぁ、そうそう。そうだね。」

真由は、もういいや、といった風にコーヒーを飲んだ。
でもさして機嫌は損ねてないらしい。

「楽しみ。海外旅行なんて、2年ぶり。」

落ちた煙草を拾い、そうか、と相槌をうつ。

「前はね、大学の友達と4人でタイに行ったの。
 女の子だけの旅もすごく楽しかったけど、でも夢だったんだ。
 彼と海外行くの。」

本当に嬉しそうにしながら両手でカップを持っている。
「彼」という言葉が、自分を指している言葉とは違うように響いて、
知らない女性の会話を隣のテーブルで聞いているような気分になった。

自分の言葉になんの反応も返ってこないことを不思議に思ったのか、
真由はもう一度繰り返した。

「夢だったんだよ。」

真由に正面から真っ直ぐ見られて、
我にかえって考える。そうか、相当楽しみにしてるんだな。

「うん。俺も夢だったよ。こういうの。」

「また適当なこと言って。」

拗ねた表情をして見せて、でもまた機嫌を直す。

「そういえば『夢』で思い出したけど、
 私ね、スチュワーデスになりたかったんだ。ちっちゃいとき。」

「ふーん。」

「ありきたりだけど、空を飛ぶのってやっぱり憧れるでしょ。」


心臓が止まる。冷や汗がでる。
『羽』に対する感情と過去の記憶が巻き返される。
口が渇く。

「…それって、苦しいやつ?」

「苦しい?」

「飛ぶの…飛びたいのって、苦しいんじゃないの。」

動揺して、自分が何を口走っているのかわからなくなる。


真由は、飲もうとしていたカップを口から遠ざけて、
よくわからないといった顔をしたあと、
言葉の意図を読み取ろうと考える。

「 そんなに真剣な夢じゃなかったから苦しいとか、そういうのは全然。
 別に努力もしなかったし。
 スチュワーデスのあとは看護婦で、そのあとはインテリアデザイナー。
 で、結局OL。普通でしょ?」

そう言って笑って、カップを口にした。
可愛い仕草だった。
緊張がすっと身体から抜けていく。

真由はまた話し出そうとして、「それでね、」と言いかけてやめた。
慌しくバックの中を探り、携帯を手にする。

「あ、香織だ。ちょっと待ってて。」

席を立ち、テーブルを離れ、携帯を耳に当てる。

もしもし、香織?うん。そう直樹と一緒。あ、大丈夫大丈夫。
こないだメールありがとう。すごい助かった、
で、ごめん、昨日の着信でしょ?ちょっと頼みたいことがあって…

遠くなる真由の声を聞きながら、
ゆっくりと呼吸をして、テラスからの開けた景色を眺めた。

都会にしては、綺麗な空だった。

普通でよかったんだ。真由にはそれを求めていた。
どうかしてる。
あの病的なわけのわからない感情は、
少しずつ、完全に忘れていこう。

サラリーで生活をして、休みは友人と遊んで、
真由と食事をして、旅行をして、結婚をしよう。

結婚式か。鳩がいるんだろうな。
重くて丸い形をした鳩が。




それは嫌だ。





空を見ていたつもりだったのに、目に映るそれが青くない。
晴れてたのに、おかしいな。
視界の全てが急に灰色になってぐらりと揺れた。

苦しい。

強く目をつぶり、両手で耳を塞ぐ。


普通の自分を失いそうになる恐怖と、
普通じゃなかった自分を完全に忘れてしまうことへの恐怖だ。

こんな場所で。







「どうしたの?」

たたんだ携帯を手にした真由が、驚いた顔で立っている。

その大きく開いた綺麗な目と視線がぶつかった瞬間、

全身のねじが緩んだ感覚になり骨を支えていた力が抜ける。




ザッと音をたて、男の身体は一瞬にして全て「羽」に変わった。

ストンと、指に挟んであった煙草が先にテラスの床に落ちた。

赤く小さい火が散らばる。

フワリと宙に浮いた細かくて白いたくさんの羽は、

風が吹いて、

人間の輪郭を崩した。

ゆっくりと左右に揺れながら落ちて、

雪のように椅子と床に積もった。




女はただ驚いて、最後の羽が落ちるまでそれを見ていた。

それから、『旅行に行けなくなった』とさめざめと泣いていたが、

しばらくして羽を1枚だけ拾い、大事そうに手帳に挟んで

赤い目をして、でもどこかすっきりとした顔で店をでていった。


客が帰ったのを確認した店員が、

カップをさげるためにテラスにでると、

パチパチと控えな音と、焦げた匂いがした。

テーブルの下で、

落ちた煙草の赤い火が、羽に燃え移り、灰に変えていた。

店員が何事かと屈みこむより早く、

強くて冷たい風が吹いて、

灰の混ざった羽が舞って、跡形もなく空に消えた。



店員は首をかしげてそれを見上げ、

掃除をしなくてすんでよかったな、とぼんやり思った。

今日は空が澄んでいて、高くて、綺麗だ。

目を細めて呼吸をした。

そうしているうちに11月の肌寒い風が再び吹いて、

店員は首をすくめて、

思い出したようにあたたかい店内に戻っていった。
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# by dasein100-1 | 2006-10-06 00:33 | 048 羽

047





マリオ




1き増えた。

田中んちのちょっと先にある「マンデー」っていうスーパーの、
ブロック塀に沿って歩いていくと1UPのポイントがあって、

ピロリロリロ~
ってあの音がする。

それに気づいてしまった俺は1き増えた。


たいして珍しいことじゃないと思うかもしれないけれど、
この世の中でリアルに起こるのはまれなんだ。


例えば立派な口髭を生やしたおっさんが主人公の世界では
よく起こる出来事だと認めよう。

奴らにしたら「1き」増えることなんて、たいして珍しくもない。


でも俺は生まれつき色が白く、あごにざわつく程度しか髭の生えない22歳の人間で、
頭の悪そうな怪獣にさらわれた女を助けに行くほど元気じゃないし、
兄弟で色違いのオーバーオールを着るようなセンスも持ち得ていない。


そんな俺が「1き」増えるなんてことは、
この世の中にしたら非常に驚くべきことだ。


アーモンドチョコレートの20%増量中なんてめじゃない。
シャンプーにお試しようのミニボトルトリートメントがついているのなんてめじゃない。


クローンや人間冷凍保存なんかより、よっぽどすごい。
その気になれば「NEWS23」にでれる。

まぁ俺は周りが思うほど目立ちたがりじゃないから、
そんなことはしない。


でも少しだけ考えた。
いや正直言うと激しく、妄想した。

何をしよう。




「アイ キャン フライ!」
て叫んでビルの5階から飛び降りてみようか。


どうしても人を殺してみたかった
なんていう頭のネジがぶっ飛んでしまった奴の標的になって、
その欲望がどんだけ空しいものか試させてやろうか。



新薬の被験者に立候補して、
試験に使用される予定だった大量の実験動物達を救い出して、
動物愛護団体のアイドルになるってのはどうかな。


テロリストに捕まって、
というか捕まえてもらって、
こめかみに銃口がくちづけしたところを
ネットで公開生放送されるのも悲劇的で刺激的だ。


地雷を素手で掘ってみようかな。







さて。

結局ね。

この不意に増えた「1き」の使い道を
俺は自分で決められない。

悪いことをするにしても、良いことをするにしても、
どんなことをすればいいのか
正直わからない。

どうすればいいと思う?






「くだらない。」

サオリはスプーンをなめた。

「それに、つまんない。」

そのスプーンをまたヨーグルトに沈めた。
サオリはこの手の話に飽きている。

まるで興味がないといった顔で、15分もかけてヨーグルトを食べている。
綺麗に食べ終わった後は、ソファーに首を仰け反らせて寝る予定らしい。

そして、予定通りの行動を実行した。


1DKのサオリの部屋は狭い。
赤いソファーは見た目はいかにもハイセンスなインテリア家具で、
驚くほど寝心地が悪い。
そんなソファーでいつもサオリは寝ている。


俺は暇になり、床にあるテレビを点けた。
まぁでもたいして面白くもなくてまた暇になり、
その辺に転がっていたananをめくった。

さらに15分経ち。


『特集:女の魔力 -本気を伝える目ヂカラ-』
というページをめくっているとき、

急にむくっと起き上がったサオリは、
半目の状態で俺のほうを向いて、
「何があるかわかんないし、とっておいたら?」
と言った。


半目のサオリは気持ち悪いなぁと思った俺は、
それにばかり気をとられて、
サオリの言うことがさっぱりわからず、
「なんのこと?」とたずねた。


「2きあるんだったら、無茶せずにとっておいたら?」


そのことか。もう全く興味ないのかと思った。


「とっておく…ね。」

「だって、もうあと1きしかない、ってときは緊張するでしょ。」

ようやく目が全開して、まともな顔になったサオリが、
やけに真剣に言う。


「つまりみんな1回失敗したら終わりだって
 ドキドキしながら生きてて、実際ほんのちょっとのことで死んじゃうでしょ。
 2きあるんだったら余計に慎重に使ったほうがいいって。」

「うーん。」

「ほら、次の面に進める可能性も高くなるわけだし。ね。」

やけに熱心に言う。

「そうだなぁ。じゃ、とっておくか。」

「よかった。俊がまだ2きあるって思ったら安心した。」



サオリは満足そうに頷き、またソファーに埋もれた。
さっきまでバカにしてたくせに、この変容っぷりはなんなんだろう。



「俊が夢でさ、死んでんだもん。Bダッシュして、ポトッって穴に落ちてんだもん。」

なに?

「変な帽子かぶって、変な服着て、バカみたいにダッシュして、ポトッて。
 悲しかった。」

サオリは本当に悲しそうな顔をしていたが、
夢の中で勝手に殺された俺は激しくイラッとして、
長く柔らかい髪からはみだしているその耳を思いっきり引っ張ってろうと
ソファーを覗き込んだ。

そのとき、
床に置いたananに足を滑らせ、
後頭部を激しくちゃぶ台の角にぶつけた。



ひどく流血した。

救急車に運ばれた。

そして生死をさまよった。

そのときのことはあんまり覚えてない。
ポトッと穴に落ちたような感覚だった。





病院にかけつけた親族やら友達やらの前で、
サオリは鼻歌交じりに
「大丈夫、まだあと1きあるから。」
と言って、待合室にあったマンガを読んでいたらしい。


とんでもなく変わった女だと、
手術が終わるまで遠巻きにして誰もサオリのことを構わずにいたが、
ようやく手術室の電気が消え、医者が出てきて、
緊迫したこの場を解くにふさわしい言葉を発すると、

遠くのイスで1人膝を抱えてマンガを読んでいたサオリが突然、
ガタガタと震えだし、手からそれを床に落とし、
わーんと泣き出した。


そんな病院での劇的であからさまな展開により、
そもそも1UPがどうとかいうくだらない話をしていて、
ananで足を滑らし、
ちゃぶ台に頭をぶつけて死にかけたということについては
あまり触れられることがなく、
俺はこの世に戻ってきた。






ホントに、ちょっとしたことで死んじゃうかもしれないんだなぁ。


「うざい。」

サオリはスプーンをなめた。

「それに、うざい。」

そのスプーンをまたヨーグルトに沈めた。
サオリはこの手の話に飽きている。

俺はまだ病み上がりで、少し弱気になり、
なにかにつけあのときの話を持ち出す。


退院してから1ヶ月経った今、こんな調子で毎日が過ぎている。










ついでに言うと、
田中んちのちょっと先にある「マンデー」っていうスーパーの、
ブロック塀に沿って歩いていくと1UPのポイントがあって、

ピロリロリロ~
ってあの音がするのは本当の話だった。


俺はサオリにうざがられて仕方なく外に出て、
ふらふらと散歩をするつもりであの場所に立ち寄ったんだ。


ピコピコピコピコと、
安っぽい音が聞こえてきた。

あの1UPのポイントで、
センスの悪いオーバーオールを着て、
もじゃもじゃした口髭を生やした小太りなおっさんが、
ブロック塀の辺りを何回も何回も通っていた。

こそこそしながら。ぐるぐる同じところをまわりながら。
何回も何回も。


なんだか滑稽で、可哀想になったから聞いてみた。

「何きになったら満足するんだ?」

おっさんはびっくりして、きょろきょろと周りを見回し、
この場所のことはみんなに言いふらすなよ、と言ってまた走り出した。

「姫はどうしたんだ?」

おっさんは、口をぽかんと開けてこう言った。

忘れてた。
そうだ、姫を助けなきゃ。

そうだそうだ。
この場所のことはみんなに言いふらすなよ、と言ってまた走り出した。


おっさんがぐるぐるまわっているところには蓋の開いたマンホールがあって、
おっさんはそこにポトッと落ちた直後に、
またニョキッとあらわれて、何事もなかったかのように走り出す。
つまり、
1き増やした直後に1き失っているのだけど、
そんなことにも気づかずにぐるぐるぐるぐる同じところをまわっている。




俺は少し禿げてしまった後頭部の傷の辺りをぽりぽり掻いて、
その場をあとにした。

コンビニに寄って、ヨーグルトを買った。

本屋にも寄ろう。

あの一件からananを買わなくなり、
マンガ嫌いになったサオリのために、
とりあえずジャンプを読ませてリハビリをしよう。

そのあとは久しぶりに2人でプレステでもやろうかなんて考えながら、
穴の開いたマンホールに落ちないように気をつけて、
あの電子音を口ずさみながら、歩いた。


あぁだいぶ寒くなってきたなぁ。


日が落ちる。それだけでも胸が苦しくなった。
やけに切なくなって涙がでてきた。


おかしいなぁと思ったけど、
止まらなかった。


マンションについて、サオリに「どうしたの」って驚かれて
「日が落ちるのが切なくって」と言ったら
思いっきり笑われたけど、


それでもまだ切なくって


疲れきって赤いソファーで寝てしまうぐらいまで、
泣いた。

目が覚めたとき、
サオリは俺をソファーから押し出すように横に座っていて
真剣にジャンプを読んでいた。
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# by dasein100-1 | 2006-09-07 00:17 | 047 マリオ

046




自転車



木下君という知り合いがいる。
彼は都内の私立大学に通い法律を学ぶかたわら、
趣味でサックスを弾く。

骨格が目立つような華奢な身体で、
あごが細く尖った顔をしている。
知的で、
自分に似合う服を嗅ぎ分けるセンスを持っている。

「スマート」
という言葉がぴったりな人だ。


ただ、いつも、
片方しかレンズの入っていないメガネをしている。

それはポリシーというやつらしい。



彼は少し変わっている。


しかしそれ以上に際立った特徴として、
非常に風変わりな自転車を持っている。

毎日それで学校へくる。




 【自転車(じてんしゃ)とは、二つの車輪がついていて、
  自走できる動力源が付いてない乗り物をさす】



彼はいつもよく背中に黒くて大きな円状のものを背負っている。
それは28インチの2つの車輪である。
そして手にはまるでペンケースを持ち歩くかのように
剥き出しのペダルを持っている。


車輪が2つと、ペダル。


それが彼の自転車だ。



それだけで十分事足りる。
なぜなら彼の自転車の場合、
フレーム(本体)となるものは無数に存在し、
都合がいいときに、適したそれを選べばいいのだから。

彼の自転車は本当に便利だ。
車輪をつけたものが自転車になる。
さらにペダルをセットして、
それをこげばなんだってスイスイと走り出す。

たとえば。

たとえば公園のベンチ、

たとえばカーネルサンダース、

たとえば女子高生、



なんでも自転車になる。

本体は硬質な金属のパイプが組み合わせられたものとは限らない。
むしろあんなものは、非合理的だ。
第一あれは自転車のフレームになる以外他に使い道がない。
非常に使い勝手が悪い。

と言う。


犬好きの彼は、よく本体に大型犬を選ぶ。



彼が自転車として利用している間は、
4つの脚はタイヤと同化していて、
あらゆる苦痛も記憶もなくなる。
もはや犬は犬ではない。


 【動物(どうぶつ)とは、動物界に分類される生物の総称である。一般に運動能力と感覚
  を持つ、多細胞生物である。体外から養分を摂取する従属栄養的な生物である。 】


登下校の途中や、街で彼を見かけるときは、
たいていいつも自転車に乗っている。


このあいだは、体が小さくてしっぽの切れた猫に乗って学校にきた。

しかし彼は浮かない顔をしていた。

「なんだか悪いことをしているようで乗り心地が悪かった」
と、車輪を外しながらそう話した。


でも猫にとって彼のそんな感情は、
夏に生え変わる毛よりも不要でどうでもいいものである。

彼は猫の車輪をはずし、
愛情というやつでたっぷり感謝をしめそうと、
手を伸ばした。
けれどそれは宙でさみしく泳ぎ、行くあてがなくなった。
猫はすばしっこい体で跳ねるように駆け出し、
あっという間にいなくなって、振り返りもしなかった。

「知ってるんだ。
 乗り物に愛着を持つのは乗る側だけで、
 そんな押し付けがましい感情は、
 乗られる側には必要のないものだ。」

彼はそんな風に言いながらも、
寂しさで泣きそうな顔をしていた。

僕に見られていることに気づくと、
瞬間的に表情を消してこう言った。

「これもエゴだ。
 どうせ帰りにはまた違う猫か何かを選ぶんだから。」





たまに人間にも乗る。

サラリーマンにも、
パン屋にも、
校長先生にも乗る。
友達に乗ってるのも見た。

「乗ってみたい子はたくさんいる」
と女の子を見ながら話しているのを聞いたことがあるが、
それは自転車として、という意味なのかどうかはわからない。











彼の自転車はとても便利で、
ペダルと車輪を付ければ、なんでも自転車になる。






「僕がいつも片方レンズのないメガネをかけているのは、

 あまりに物事をバランスよく見すぎるからだ。

 こんなおかしな自転車を持っているのも、

 簡単に『乗れない』ものがあることを学ぶためだ。」




木下君はあまりに頭がよく、
器用な人間に生まれてしまった。



幼い頃の記憶に痛みはない。




自転車にもすぐ乗れた。




普通は

ぐらぐらして、ふらふらして、
たまに派手に転んだりして、
励まされたり、後ろを支えてもらったり、
でもいつの間にか乗れるようになる。


彼にはそんな経験がない。




「結局僕に乗れないものなんて無かった。
 こんなものだけで何にでも乗れちゃうんだ。
 悲しいことだよ。」


木下君は車輪とペダルを僕に向かって投げた。


僕はうまく受け取れなくて、
車輪があっちこっちに転がっていくのをなんとか追いかけて、
落としてしまったペダルを拾って、彼の前に戻ってきた。


彼は両手をひらひらと動かし、
「要らない。やるよ。」
という仕草をした。


彼の真似をして
近くにあった看板に車輪をつけようとしたが全然うまくいかなくて、
猫に近寄ってみたが逃げられ、
車輪とペダルを抱えて結局何もできなかった。



僕には使いようがない。
みじめで泣きそうになった。


「泣きたいのはこっちだ。」


木下君は少し離れた場所から、
聞こえるか聞こえないかぐらいの声でそう言った。


なぜ彼が泣きたくなるのだろう?



「自転車持ってる?」


持ってない。そういえば僕はもともと自転車に乗れない。

首をふると、彼はスタスタと近づいてきて
僕の手から車輪とペダルを取り返した。


そう、どうせ僕は自転車に乗れなかったんだった。


そう伝えると、

「自転車に上手に乗るには、バランス感覚が必要なんだ。
 でもね、そんなものはあっても幸せなわけじゃないし、
 なかったからって悲しいことじゃない。 」

と、言い残し、
木下君は自分の身体に車輪とペダルをつけ、自転車になってしまった。

普通の自転車だ。

なんでもない、
金属のパイプがフレームになった自転車だ。


残された僕は、それを放置するわけにもいかず、
ゆっくりと歩きながら手でひいて帰ることにした。

元は木下君だったと思うと、乗る気にはなれない。


傷をつけたらどうしよう、
壊してしまったらどうしよう、
無くしてしまったらどうしよう。




でも、そうだ。

乗り物に愛着を持つのは乗る側だけで、
そんな押し付けがましい感情は、
乗られる側には必要のないものだ。



僕はたまに間違える。
感情のかけかたをよく間違える。



彼は片方レンズがないメガネをしていても、
本当に物事がよく見えていて、
バランスのいい考え方をしていた。


うらやましいと思っていたけど、
自転車になってしまった。


すぐ乗れることも、乗れないことも、
たいして変わらないのかもしれない。


無駄なことは考えないようにしよう。


僕は素敵な自転車を手に入れたということだけを考えた。
それはすごく幸せで、
都合がいいことで、
なんだかとても楽しくなってきた。


元は木下君だった自転車に乗って家まで走った。


十数年ぶりに乗った自転車で、
なんどか転んで地面でかすり傷を作ったけれど、
風が顔をなでて、
最高に気持ちが良かった。




でも
なんとなく物悲しいのは、

僕も彼に影響されて、
世界は全てそんな風にできていることに気づいてしまったからだった。





乗れることも、乗れないことも、
たいして変わらない。

世界は全て、そんな風に。
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# by dasein100-1 | 2006-08-09 01:31 | 046 自転車

045









会社帰りに寄った閉館15分前の図書館で、
きょろきょろと首をまわしながら、
うろうろと館内を歩く犬に出会った。

「やぁ。」

選びに選んだ5冊の本を腕に抱えていた僕は、
その重量で体が左に30度傾いていたが、
なんとかバランスをとりながら、
なにげなさを装って空いた右手をあげ声をかけた。


犬はきょろきょろまわしていた首を止め、
ふと視線をずらして僕の顔を見た。
確かに犬は僕の声に振り向いたようだが、
少しの感情の動きもなくただ顔だけこっちを向いていた。

つまり数秒間完全に僕は無視された。

その沈黙に耐えられなくなって、
「じゃまぁそんな感じで。」と言ってその場を去ろうとした瞬間、
犬は僕に歩み寄り、右手を差し出してきた。


「やぁどうも。奇遇だね。」


意外な展開に動揺し、反射的に右手を差し出した僕は、
バランスを崩して左腕に抱えていた本をばたばたと床に落としてしまった。

犬はただ、
僕の中途半端に宙に浮いていた手をしっかり握り、
何度か揺らして満足そうに微笑んだ。

「図書館は楽しいね。」

「えっと、あ、うん。そうだね。」

楽しい?まぁ、楽しいけれど。

落とした本が気になって、
なんとなく焦りながら握手を終え、
派手に床に散らばったそれらを拾い上げようと屈んだ。

当然犬も手伝ってくれるものかと思っていたが、
彼は這いつくばって本を拾う僕の横をすっと通り過ぎ、
またきょろきょろと探索を始めた。


僕はその姿を床から見上げた。

いったい何を探しているんだ?


犬は、犬の中では大きい方で180cm近くある。
ひょろりとしていて、首が長い。

犬は、犬の中ではめずらしく二足歩行で、
大股で歩く。

タバコも吸うし、
原チャに乗る。

そんな奴が図書館で何を探しているんだ?






「探しものじゃない。見学だよ。」


床にぺたりと座ったままぼんやりと上を見ている僕に、
犬はぬっと顔を近づける。

拾い上げた本をまた左脇に抱えたら、
シャツがそっち側にずれて情けない格好になっていた。


「見学?」

「そう、見学。」


犬はぐっと上体を起こし、遠い目をした。
鼻がひくひく動いている。


「図書館に興味があるの?」

「ああ、まぁ。匂うからね。」

「匂う?」

犬は目を閉じ、息を吸い込む。
長いまつげがゆれる。

「匂うよ。本が。本からいろんな匂いがする。」

「へー。なかなか文学的なこと言うんだね。」


犬は薄く目を開け、
僕を軽蔑するようにするっと視線をこっちによこした。


アホか。


声には出さなかったが、口がそう動いた。


「匂いは匂いだ。」




シャツをだらしなくずらしたまま、
怠惰に立ち上がった僕にむかって、
突然犬はひどく顔を近づける。




「コンクリートの匂い。   夕食の匂い。
 
     紅茶の匂い。
 
 死の匂い。          海の匂い。」


僕の腕にある5つの本に黒い鼻をぴったりつけて、
つぶやく。


にっと横にさけた大きな口が数cmの距離でそこにある。
喰われるかと思った。


「なるほど、勉強になるわけだ。」

どうやら合点がいったらしく、
本から顔を離し、小さく何度かうなずく。

犬が何を言っているかはよくわからなかったが、
同意するように僕もうなずいていてみる。


「ところで、閉館だよ。」


蛍の光が流れだした。

犬は耳をぴくぴく動かしたが、興味なさそうにあくびをした。



「借りなくていいの?本。」


「俺は鼻が利くから本は要らない。」






やさしい図書館司書のお姉さんの声を後にし、
僕らはそろって外へ出た。

犬は無言で一本タバコを吸い、
駐車禁止と黄色い字でかかれた場所に置いてあった、
ポンコツで赤い原チャに乗ると、
右手をあげ、アクセルをふかし、
あっというまにいなくなった。


僕が借りたこの五冊の本は、
全部『経済学』の本だったのだけれど、

どうやら

コンクリートと  夕食と
    紅茶と
死と        
          海の匂い。

がするらしい。




なるほど。

勉強になるわけだ。
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# by dasein100-1 | 2006-07-10 01:32 | 045 犬

044




電線




いつものように駅まで向かう道を歩いて
考え事をしていた。


南に上陸したらしい台風のこと。

やり直しを何度も繰り返して、
またダメかもしれないと思っている彼女のこと。

ハトのこと。

午後は晴れるという根拠のない自信で干してきた洗濯物のこと。

自分ばかり損していると思いはじめたら、
急にやる気のなくした仕事のこと。

見逃した映画のこと。

ためているメールのこと。



脈絡もなく。考え事をしていた。


ふと頬に冷たい感触があって、ふと顔を上げると
電線から雫が落ちてきていた。
目を細めてそのまま空を見ていて、
前から来た高校生に気がつかずに、
すれ違いざま必要以上に肩をぶつけられた。


半回転してよろめき、
けれど毒を吐くようなベタな度胸はなく、
その後ろ姿をぼんやり眺めてから、
居心地の悪い気分で前に向きなおった。

道路が続く。
なんて普通の景色なんだ。


もしかしたら違う道を歩いていたのかもしれない。
違う選択をして、
違う誰かと出会って、
こんな道は歩いてなかったのかもしれない。


なんて普通の景色なんだ。




気がつくと電柱のボルトに手をかけて、
上へ上へと登っていた。



電線を歩いてみた。



街の上を縦横した黒い電線は、足をのせるとぎゅっとしなって意外に歩きやすく、
そこを歩いているのは他には誰もいなくて、
思った以上に気持ちが良かった。


それで。


台風のことも、彼女のことも、ハトのことも。
洗濯物のことも、仕事のことも。
映画も、メールも。


全部忘れて、電線の上で過ごしてみた。



電線の上には電線の上のルールがあって、
例えば大量にスズメが群がるテリトリーや、
電柱が老朽化して危険な地域、
突風が吹く場所、
思うほど楽ではなかった。




でも3年も経ったら慣れた。
どんな環境だってそんなもんだ。






駅まで向かう電線を歩いて
考え事をしていた。


脈絡もなく。3年前の暮らしを思い出していた。


台風のこと、彼女のこと、ハトのこと。
洗濯物のこと、仕事のこと。
映画、メール。



もう鮮明に思い出せなくなっていて、
急に寂しくなった。


電線の上でしゃがんでみた。
久々に膝を抱えて泣いてみようと思った。


でも。
足元をみて、泣く気が失せた。


愕然としたのは、足がもう地面を歩くためのものではなくなっていて
靴もなくて、
その代わりに鳥のように硬くて割れたつま先があった。
背中も背中ではなくなっていて、
バランスをとるために翼のように空に向かって伸びた肩甲骨が
風を受けて体を支えていた。

降りることが怖くなった。



居心地の悪い気分で前を向いた。

電線が続く。
なんて普通の景色なんだ。

もしかしたら電線なんか歩くべきじゃなかったかもしれない。
違う選択をして、
違う誰かと出会って、
こんなところは歩いてなかったのかもしれない。

でももう降りれない。


ふと頬に冷たい感触があって、顔を上げると
雲と雲の隙間から雫が落ちてきた。


今度はいっそ飛んでしまおうか。



髪が雨に濡れ、考え事に飽きて電線の上で立ち上がった。

黒くて細いそれがぎゅっとしなった。



飛んでしまおう。


震えた髪から落ちた雫が電線の下の世界に落ちた。



電線の下の世界では、見たことのある男が頬に雫を受け、
目を細めて空を見ていた。
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# by dasein100-1 | 2006-07-04 08:01 | 044 電線

043




ドロップ



どうにもこうにもドロップのフタがあかない。
円くて金色のそれは
ぴったりと缶に吸いついていて、
頑張っても頑張っても爪がカリカリと縁をかく。


頑張るのに飽きて、
缶を上下に降ってみる。

ガラガラ ガラガラ

ガラガラ ガラガラ


この中にドロップがあるのに。



いつのまにか、
ドロップがないと生きていけない体になってしまった。


歯が溶けるのを気にしながら、
朝起きた瞬間から夜寝るまでの約18時間。
口の中にはいつも、どんなときもドロップがある。
ずっと舐めている。

きっかけは寂しさだった。
寂しくて仕方がないときがあって、ドロップにはまった。




去年のこと。夏が終わるころ。犬を失った。

それはとても自然な成り行きで、
予想もできて、気持ちの準備もできる、静かな出来事だった。


その「チビ」という名前の犬がまだ子犬だった頃、ドロップをあげたことがある。
放り投げられたドロップを、無邪気に飲み込んだその犬は、
苦しそうに喉を鳴らしゲホゲホと犬なりの咳をした。
そして目に涙をためて、
少し溶けかけたドロップを吐き出した。


15年も生きてしまったその犬を失ったとき、
そんなことを不意に思い出した。

15年も生きてしまうなんて。


「チビ」という犬を失って、どうしようもなく寂しくて、
寂しくなくなるなにかが欲しかった。


犬とドロップの関係は思い出す限りたったそれだけだ。


だから、それはただのきっかけで、

この体はもともと
ドロップがないと機能しない仕組みを潜在させていたのだと思う。



『依存』というのはそういうものだと。
ドロップを切らした体が教えてくれる。




どうにもこうにもフタがあかない。

なんだか手が震えてきた。

なぜこの金色のフタは、頑なにドロップを外に解くことを拒むのだろう。

缶を硬い机に打ち付ける。

ダメだ。

外に飛び出し、アスファルトに缶をうちつける。

なんども、力いっぱいうちつける。



衝撃でフタがあく。

赤や緑や白や黄色のドロップがアスファルトに散る。





どうでもよくなった。
そんなにこれが欲しいわけじゃない。



次に何を必要とすれば生きていけるだろう。
散らばったドロップのそばに座って考えた。


考えて考えて考えたけれど答えはでなくて、
ドロップは残暑のじりじりとした熱に溶けていき、
アスファルトの上で小さな色の円い世界を歪ませていた。


ドロップが溶けてアスファルトに完全に染み込むまで
考えて考えて考えたけれど答えはでなくて、
ぼんやりと考えすぎた私は
残暑のじりじりとした熱に溶けていき、
ドロップになり、
アスファルトに溶けた。





日が落ちて、何も見えなくなった。


アスファルトに溶けた私は、
地平線に混ざり合ったためにまっすぐ空を見ることが出来る。

星が出ていた。

もう生きていくのに必要なものを探さなくていい。
それはなんて心地いいのだろう。




遠くから茶色い犬が歩いてきて、
甘い味の付いたアスファルトをぺろぺろと舐めた。
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# by dasein100-1 | 2006-06-26 02:30 | 043 ドロップ

042



空腹




無駄なものは食べることにしている。
それは習慣になってもう2年になる。



買ったのに着ない服。
買ったのに履かない靴。

あまり聞かないCD。読みかけでやめた本。


そういうものは全部食べる。

躊躇せず。

唇を舐めて、歯を軋ませて、音を立てて、
無駄なものを噛み砕く。

そして飲み込む。




今日、コンバースを食べた。
デザインは気に入ってるのに、妙に履き心地が悪くて
ずっとしまっておいた黒いやつだ。


無駄なものに味はない。
重さもない。

胃の中に入ってしまったら何も感じない。


右足のコンバースを飲み込み、
左足のそれを口に含み、靴紐を口の端から垂らしたまま考えた。


いったい僕はどうやって生きているんだ?



無駄なものを食べている割に、身体は引き締まっていた。
いわゆる人間が必要とする成分は、ここのところ全く摂取していない。

でも異常はなく。
空腹さえも感じることはない。

日々の仕事をこなし、
生産的な生活をしている。



絶対に必要なものだけ買うようになった。
だからここには絶対に必要なものだけ在る。


無駄だったものは僕によって全て食い尽くされようとしている。





写真は無駄だな。






「今日何してた?」なんて会話は無駄だな。

感情が無駄だな。




無駄なものは食べることにしている。
それは習慣になってもう2年になる。

おかしいな。



最近常に胃の中が空っぽだ。
それどころか。
肋骨の内側が空っぽだ。

空腹は感じないけれど、これはきっと危険な状態だ。


内臓が砂になって、
身体の中で風が吹いて、
骨と骨の隙間でカサカサと鳴っている。


なんでもいい、何か食べないといけない。
でもこの部屋には絶対に必要なものしかない。




まだなにか残ってるだろう。




殺風景だな。

シンプルで風通しのいい空間だ。





チャイムが鳴った。



開いたドアの前に現れたのは、
僕よりも痩せていて、
無駄どころか必要なものまでないような華奢な女の人だった。


「いるじゃない。」

そりゃいるよ。

僕は声に出さずにつぶやいた。ここは誰の部屋だと思ってるんだ。


「なんでメールも電話も返さないの。」

「昨日はどこにいたの?今日は?」

「どうしたの、何かあった?私が何かした?誰かから何か聞いた?」


頭がじりじりと痛くなってきた。

ただの質問だ。ただ答えればいい。

でも、喉がつかえる。


「どうして何も言わないの?」


苦しくなり、すーっと息を吸うと、
急に途方もない空腹に襲われた。





気がつくと僕は彼女を飲み込んでいた。





それでも胃の中は空っぽだった。

おかしいな。


空腹がおさまらなかった。
皮という皮が体の内部に貼り付いてしまうんじゃないかと思うほど、
何かを欲していて、
頭の中は『無駄なものを食べること』で充満していた。



さっきの彼女は
大事なことを何ひとつ言っていない。
さっきの質問をこれまで何度も繰り返した。
無駄な存在だ。

食べてしまったことは間違っちゃいない。


しかし今までになく喉が乾いている。
胃は果てしなく空洞で、腕にも足にも力が入らない。



身体が風化してくのを感じる。
表面からボロボロと剥がれて、地面に落ちて砂に混じっていく。



100%必要なものだけ残したはずだ。
素晴らしく効率的な完全体に近づいているはずだった。




肋骨も砂に変わろうとしている。
目のレンズに移る景色もノイズ混じりのTVようにざらざらに見えてきた。

不意に風が吹いた。

ざわっという音を立てて僕の身体は空気に散らばって完全に消えた。








そもそも僕はどうして生まれてきたんだ?


飲み込んだはずのモノの余韻だけが残っている。


例えばコンバースの靴紐が。

僕自身が消えてしまったのに、
空気に混じってなぜかそんなものの形骸だけが残っている。

空気に混じって、例えば彼女の皮肉な声が。


気に触ると思っていたのに、
もう一度聞きたくなって散った空気をかき集めてしまった。




けれどもう無かった。




無駄なものは食べることにしていた。
それは習慣になってもう2年だった。


自分に意味があることを確かめたかったけれど、うまくいかなかった。

結局僕はどうしようもなく無意味で仕方がなかった。


埃よりも砂よりも。


それで、この身体は声のように空気に散らばって完全に消えた。











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# by dasein100-1 | 2006-06-15 19:26 | 042 空腹

041



猫か海か





車の下に猫がいた。

彼は、押入れの中のドラえもんのように、
その場所がまるで自分の居場所だと信じていて、
無防備に寝転がっていた。

車が彼の上から去ったとき、
鳴くよりも前にびくっと身体を硬くして、
辺りを見回し、
全速力で駐車場の隅の草むらに走って身を隠した。
そこでやっと悲しそうにニャーと言った。




それで僕は、海へ行くことにした。
脈絡はないけれど、それはルールなのだ。



実のところ、
僕は生きている時間の98%は海へ行きたいと思っている。
でもその欲望に従順になってしまったら、
もっぱら不便なことになってしまう。
そういうわけで僕はあるルールを決めた。


猫に会ったら、よしとしよう。



どうしようもない気持ちを許すのは、

「ものすごく頻繁に起こるわけでもなく、
 でもじりじりとそれを待つほど起こらないわけでもない。」

ことにしようと決めた。

それで、
いろいろ考えて、ちょうどいいのが猫だった。


猫に会ったら、海へ行ってもよしとしよう。




青い車の下にいて、
心地いい居場所を失ったあの猫は、
今日の僕の欲望を許すために、
散歩ルートにある何気ない駐車場に現れて、
そんな小芝居を演じてくれたのだと思う。




海へは歩いて行ける。
海に近づくと徐々に風が強くなってきて、匂いがそれらしくなった。
今日は空として全体に薄い雲がかかった暖かい日で、
なにひとつ風景に不穏なものがなく、
できすぎていて怖い。



わりかし、そういう気分になる。
たぶんもっと前はもっと素直に物事をみていたのだけれど、
どういうわけか最近は、
怖かったり、不安だったり、
びくびくしていて、
とても楽しいことがおこるよりも、
とても悲しいことがおこらないためのやり方を考えている。



不安定なことが安定になってしまうまえに、
もっと優れたバランス感覚が欲しいと思っている。

そういうわけで猫に固執しているのかもしれない。



本当のところ、猫は好きでも嫌いでもない。


でも、猫と海のルールを決めてから、
僕にとって大事なのは、
猫なのか海なのかわからなくなってきた。






砂浜でさっきの青い車を見つけた。
運転席には誰も乗ってなかった。




せっかく海にきたので、昼寝をすることにした。











ふと意識が戻ると、車の下に僕がいた。

僕は、押入れの中のドラえもんのように、
その場所がまるで自分の居場所だと信じていて、
無防備に寝転がっていた。


そして突然、車が動き出して、いなくなった。


僕の上で、あったはずの温度が急に消えた。
ひどく動揺して、
鳴くよりも前にびくっと身体が硬直した。

慌てて辺りを見回したけれど、
やっぱり何も無くて、
全速力で海岸脇の草むらに走って身を隠した。

そこでやっと悲しそうにニャーと言えた。











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# by dasein100-1 | 2006-05-12 07:14 | 041 猫か海か